【 三国一の妻 】
- さて、孫堅の元に嫁いだ呉夫人は175年に孫策、182年に孫権、翌年の183年には孫翊と子どもにも恵まれた。呉夫人は、孫策が生まれた時には月が、孫権が生まれる時には太陽が懐に入った夢をみたと【捜神伝】にあるが、これは二人の行く末をあまりにも見事に暗示しており、後世の作り事ではないか?と思われる。
- 175年に長男の孫策が生まれているということは、孫堅と呉夫人が結婚したのはそのちょっと前、つまり許昌の乱を孫堅が平定した時期くらいだろう。その後孫権が生まれるまでに7年の差があるのは、おそらくこの時期、孫堅が呉郡を離れて三つの県の丞を歴任していたからだ。おそらく忙しさで呉郡に戻る時間もほとんどなかったのではないだろうか?182年からは孫権・孫翊と続けざまに子が誕生しており、末っ子の孫匡と娘の孫尚香は生まれた年が定かではないものの、おそらくこの時期の周辺の誕生ではないかと思われる。というのも、184年からは黄巾の乱が勃発し、孫堅は朱儁に従軍して黄巾討伐に参加、その後も張温の涼州討伐遠征軍に参加。かなりこの時期の孫堅は忙しい。そして187年からは区星の乱平定により長沙太守に任じられており、以後は孫堅は呉を離れ長沙に単身赴任状態であるからだ。
- 呉夫人に限らず、女性の伝というのは簡素すぎてどこで何をやっていたかもよく分らない。実は呉夫人伝もその半分は弟の呉景の伝であり、呉夫人の伝そのものは真ん中の部分がすっぽりと抜け落ちていている。よって夫の孫堅伝や息子の孫策・孫権伝あたりからどこで何をやっていたのかを推測するしか手がない。
- 孫堅が長沙に単身赴任してから反董卓連合に参加するまでの間は、呉夫人は孫策・孫権らと共に孫堅の家がある富春に住んでいた。黄巾の乱勃発後は実質的な家の切り盛りは呉夫人が一手に担っていたのは想像に難くなく、その一方で地元の有力者たちとの関係を取り持っただろう事も推測できる。孫堅が打倒董卓の軍を起してからは、舒(じょ)に移り住み、そこで地元の名家である周家との交友を結んでいる。これなどは遠く関中で戦っている孫堅がどうにかできる事ではなく、呉夫人の内助という部分が明かに大きい。周瑜伝には、【孫家と周家は必要な物は互いに分け合って生活していた】とあり、呉夫人の人となりの良さを伺い知る事ができる。
- (注)ちょっと語弊が。周家と孫家の接近を呉夫人がコーディネイトしたという意味ではない。なんらかの利害が一致して周家と孫家は接近したのだが、その中で呉夫人が親密な関係を構築するのに一役買ったという意味。周瑜と孫策の信頼関係はこの時期に作られてきている。
- こうして見ていくと、孫堅と呉夫人の間に多くの子が産まれている事などから、二人の仲が大変良かったであろう事は想像がつくし、その一方で呉を離れて任地に向かう事が多かった孫堅を裏から支え、呉の有力者たちと孫家の関係を構築していったのは、実質的に呉夫人ではないか?という推測が成り立つ。正にしっかり者の優れた女性であったと言えるだろう。孫ぽこが三国一の妻として推薦する由縁である(笑)。▲▼