【 孫呉政権は母性社会? 】
  • さてと。いよいよ皇妃伝に突入です。この章では、孫家のお嫁さんたちとその外戚の伝が書かれているのですが、まずは、三国時代の女性論から入らないといけないでしょう。三国時代の一般的と思われる女性観が、魏書第五・后妃伝に載っているので、抜粋します。
    • 【男は家の外で正しい場所を得、女は家の内で正しい場所を得る。男女がそれぞれで正しい場所を得る事は天地の大儀に合致している。】・・・易経よりの抜粋
    • 【天子の妃は12人、諸侯の妃は9人、と春秋にあるが、この言葉は永遠不変の法則だと言える。】・・・陳寿の本文
  • 上の易経の方は、まあこの時代はそんなもんだろ?と思えるのに対して、下の方はちょっと驚きです。実はコレ、為政者たちが欲望のままに後宮に美女を溜め込むのを批判するための文です。分かり易く言うと、為政者たちは12人や9人どころではない数のお嫁さんを持っていた場合が多かったのを批判している訳です。晋の司馬炎なんぞは、後宮の女性の数が増えすぎて今晩のお相手を捜すのに、後宮の中を羊に牽かせた車に乗り、その車が止った部屋の女性とやっていたというから、凄まじい話です。(陳寿はこれを暗に批判するためにこの文を書いたのだろうか?ありうるかもしれない・・・。)そして、その陳寿をもってして、【この言葉は永遠不変】と断言してしまう事からして、女性観については、当時と現代では隔絶の隔たりがあるのがよく理解できる文でもあります。(ただし、これは為政者、つまり支配階級に限る話。)
  • という訳で、曹丕や孫権クラスになると、当然たくさんのお嫁さんがいますので、妃の中でレベルに差が生じます。正室が皇后、帝の母が皇太后。この辺は今でも同じなので理解しやすいですが、その下に魏の太和年間の制定で、全部で12等存在しています。
    • 夫人・貴嬪・・・皇后の次の位。
    • 淑妃・・・位は相国(丞相)に相当。爵位は諸侯王に相当。
    • 淑媛・・・位は御史大夫に相当。爵位は県公に相当。
    • 昭儀・・・爵位が県侯に相当。
    • 昭華・・・爵位が郷侯に相当。
    • 脩容・・・亭候に相当。
    • 脩儀・・・関内侯に相当。
    • 捷伃・・・中二千石に相当。
    • 容華・・・真二千石に相当。
    • 美人・・・比二千石に相当。
    • 良人・・・千石に相当。
  • ざっと見た感じでも、結構高位に相当するのだというのがよく分ります。よく中国では外戚が政治に関与する事が多いですが、これを見ればなぜ外戚が力を持てるのかよく分りますね。また、正史に伝が書かれるのは、普通は正室である皇后の伝だけです。(魏書と蜀書は皇后の伝のみ。)所が、呉書はというと、皇后だけでなく夫人の伝も書かれています。というか、皇后であっても皇后という名前が使われず、全て○○夫人という書き方がされています。その内容は
    • 孫堅夫人・呉夫人伝
    • 孫権夫人・謝夫人伝
    • 孫権夫人・徐夫人伝
    • 孫権夫人・歩夫人伝
    • 孫権夫人・王夫人伝
    • 孫権夫人・王夫人伝(5とは別人)
    • 孫権夫人・潘夫人伝
    • 孫亮夫人・全夫人伝
    • 孫休夫人・朱夫人伝
    • 孫和何姫伝(これは皇帝の夫人ですらない。孫晧の母の伝になる。)
    • 孫晧夫人・滕夫人伝
    の11本です。なぜ皇后であっても呉書では夫人と書かれているのか?については、単純に考えるならば、陳寿は孫権の事を皇帝と呼んでいないため、当然、その妻も皇后ではない・・ということで、全部○○夫人という書かれ方になった・・・と考えるのが筋かな?とは思います。(まあ、このせいで孫権=女好き、という構図が出来上がっている気はする^^;。よくよく考えれば、皇后でない夫人の伝を立てれば曹操も曹丕も劉備も孫権並にはなるはずだ。)が、もう少し思考を巡らせれば、江東特有の女性観があったためにこうなったとも考える事ができます。
  • 冒頭で述べたように、三国時代では女性は影の存在であるのが基本です。曹丕の甄皇后の逸話でも、時代に流されるしかなかった女性たちの生き方が分ります。この辺は日本の戦国時代でも同じですが、呉の女性というのはちょっと違うイメージを受けるのです。分かり易く言うと、呉夫人は『利家とまつ』のまつ的なイメージを受けますし、孫権の妹の孫夫人は女性でありながらかなり豪快なイメージを受けます。さらに孫権の娘の全公主(孫魯育)に至ると、女性の身でありながら国政に関与して(魯育の場合は悪いベクトルで書かれていますが。)呉内部に大きな発言力を持っている・・・ように見えます。(もちろん全員がそうではない。孫亮夫人・全夫人のように時代の波に流されるしかなかった女性も多い。)
  • 本紀以外の列伝でもいくつか、江東では女性の地位が高かったのではないか?と思われる記述が存在します。武将同士の交友に際して相手の母親に挨拶に行くという記述がいくつか見られますし、赤壁の開戦か否かの瀬戸際で、孫権が母の呉夫人の判断を仰ぎに行ったり・・・。ちょっと魏書や蜀書の女性のエピソードとは異質に見えます。
  • こうした事を考えると、儒学の影響の大きい父性社会の象徴とすら言える華北文化圏に対して、古来からの長江文化圏では母性社会であり、その長江流域に基盤を築いた孫呉では、その母性社会の影響が色濃く見ることができる・・・とも言えるかもしれません。
    • (注)長江文化圏について。長江文化圏が母性社会だったというレジメをどこかで読んだ気がして探してみた。
      【長江文明は東アジアの基層文明である②】
      によると、古代長江文明では、男性の墓より女性の墓に副葬品が多いということが書かれている。古代長江文明については全く詳しくないので、これ以上深入りするのは避けるが、もし事実だとしたら、三国時代、長江流域に割拠した孫呉政権においても、その名残りがあったとしても、全く不思議ではないだろう。