【 母として 】
  • 多くの子どもに恵まれ、夫と見込んだ孫堅はその才覚をいかんなく発揮して、最強の軍団を作り上げて洛陽に一番乗り。呉夫人の教育が良いのか血筋なのか、孫策も孫権も立派に成長している。忙しすぎてなかなか孫堅が呉に帰って来れないのが残念ではあるけれど、呉夫人は幸せな生活を送っていたと言えるだろう。
  • しかし。191年、孫堅は荊州にて戦死する。享年37才。
    呉夫人の命運は一変する。呉夫人は未亡人となり、孫堅の作り上げた孫軍閥は解体を余儀なくされ、袁術軍閥に組み込まれる。長男の孫策共々、呉夫人は住居も定まらず、舒から江都へ移り住む。しかし、そこでも陶謙が孫一門を迫害し、身の危険すら感じる始末。仕方なく弟の呉景を頼って、長江を渡って曲阿に移り住む。ほとんど呉景の居候状態である。さらに悲運は続く。長江北岸の拠点を持つ袁術と、曲阿から揚州支配を模索する劉繇との関係が悪化。今度は曲阿にいる事が危険になる。そこで袁術に従う事にした孫策は、呉夫人と弟・孫権らを長江北岸の阜陵に呼び寄せる。だが時代の流れは凄まじく、孫策が江東征圧に乗り出すと、今度は孫策と袁術の関係が怪しくなる。そこで再び長江を渡り、曲阿に戻る。この間、わずか2~3年の話である。いかに呉夫人始め、孫策・孫権が激動の流れの中にいたかがよく分る。
  • こう見ると、呉夫人もまた時代の流れに翻弄される女性という側面を見る事ができるが、ただ流されるだけでないのが、呉夫人の呉夫人たる由縁。母として息子・孫策の行動を見た時に、どうしても不安がつきまとう。若くして苦労を重ねた呉夫人から見ると、孫策は自分の力を過信しすぎ、周囲の人間たちの協力があって初めて、自分たちが活かされるのだということを忘れがちに見える。孫策が父・孫堅となじみであった王晟を殺そうとした時には、孫策を叱咤して、「そんな年寄り1人をどうしてそんなに恐れるのか?」となだめすかす。また、会稽の名門の魏騰を殺そうとした時には、「そんな事をするなら、私はこの井戸から身を投げて死にます!!」という激しい行動に打って出て、孫策を身を挺して止めさせた。
    一方で、孫家と地元の有力者の関係の構築にも尽力し、会稽の有力者である謝氏の娘を、孫権の嫁として選出したりもする。
  • そんな呉夫人を、孫策はある時はうざったく、ある時はありがたく感じつつも、尊重していたように見える。この辺は時代は変わっても、母と子の関係というのはあまり変わりはないようだ。しかし、父親の面影を強く引き継いでいた孫策は、そんな所まで似なくても良いのに、200年、母よりも先に天に召される。江東の麒麟児と呼ばれた風雲児のあっけない最後だった。