【 -シーティェップ- 】
  • 字を威彦。交州、蒼梧郡広信の人。
  • 光栄三国志シリーズでも群雄として扱われているので名前を知っている人は多くても、この人がどういう人なのかをよく知っている人は少ないのではないだろうか?イメージとしては、南の果ての弱小群雄?無能?荊州四バカ君主とほとんど同列?孫権の部下??
  • とんでもございません^^;。彼は世界史史上でも名前が出てくるほどの重要人物なのです。【シーティェップ】【南交学祖】【ベトナム民族を苦しめた圧制者の一人】【士王】【喃語(ベトナム文字)の考案者】・・・これみんな士燮の事を指しています。まずシーティェップというのは士燮をベトナム読みした言い方。なんと彼はベトナムの歴史の教科書にも出てくる大物なのです。学祖というのは、士燮がベトナムに文化や字を伝えた始祖として敬服される時の言い方、つぎに圧制者というのは、士燮がベトナムを支配していた事を民族独立の観点から批判した言い方。士王というのは、まさしく王。喃語というのはベトナム文字ですが、これを考案したのは士燮であるという説まで存在するのです。ベトナム民族にとって、ある意味敬愛され、ある意味憎まれてきた人物。それが士燮なのです。しかし、士燮は三国志では交州の交趾太守に過ぎません。交州刺史ですらない。その彼がなぜそこまでの影響をベトナムに残す事ができたのか?
  • 士燮伝を読むと、彼の一族の栄華の様子が克明に記されています。
    • 士燮兄弟は並ぶ者もない権威を振るい、外出や帰還の時には鐘が鳴り、楽隊が揃い、お付きの車や騎馬が道一杯にあふれ、左右には香を焚く胡人が数十人いた。妻たちは専用の車に乗り、子供たちは歩兵や騎兵を従え、異民族たちを服従させていた。
    メッチャ豪勢です^^;。士燮の元には相当の資金があったとしか考えられません。しかし、一方で薛綜伝では交州の当時の様子が描かれ、
    • 交州では、簡単に反乱が起き、税は役所の費用をまかなうのに用いられ・・・・
    とあり、異民族や不服従民たちから租税を取るのが困難であった事が推測できます。つまり士燮は租税ではなく、別の方法で財を得ていたとしか考えられません。その資金源は一体なんなのか?それこそが士燮が死ぬのを孫権が苦虫をかみつぶして待ち続けた理由であり、さほど租税が取れるわけでもない蛮地と言って良い交州を巡って、劉表・孫権・士燮らが凌ぎを削った理由なのです。