【 したたかなる翁 】
- 210年、孫権は交州刺史として歩隲を派遣する。赤壁の戦いが208年の事であるから、孫権が交州支配に乗り出したのは、正に赤壁直後の事だった。
- 当時の交州の情勢と言うと、劉表から指名された交州刺史である頼恭を、同じく劉表から指名された蒼梧郡太守の呉巨が追い払い、士燮は曹操より安遠将軍・龍度亭侯に封じられ、交州七郡の監督権を与えられていた時期である。つまり、交州を巡って、呉巨と士燮が対立していた。士燮は赤壁以前は曹操に接近して、その後押しを受けていた訳である。しかし、赤壁の戦いで曹操が敗れると、士燮は一転して孫呉政権に接近し、その支配を受け入れた。逆に呉巨の方は、孫呉の支配を受け入れず、歩隲によって討伐される事になる。
- この辺りが士燮の政治判断力の優れていた点だろう。自らの力を過大評価する事なく、保身に努めている。当時の状況を正確に把握していないとできない事だろう。もしこの時期、士燮が孫呉の支配を受け入れなかった場合、士燮は歩隲によって討伐対象になっていた可能性が高い。そうなった場合、曹操は赤壁で敗れたばかりであり後押しは期待できなかった。後押しのない状況で、むやみに不服従を押し通して討伐された呉巨とは、政治判断力に雲泥の差があった。いや、それだけなら、士燮が特に優れていたとは言えないだろう。ただ情勢を見て孫呉に従っただけであるからだ。だが、士燮はここからの舵取りを絶妙にやってのける。
- 孫呉の支配を受け入れつつ、いかに一族の既得権を保持するか?それが士燮に与えられた命題と言えた。そのためには、自らの力を見せつつ、逆らわず・・・・と言う非常に難しい舵取りが必要になる。弱味を見せると、孫権に全ての権益を持って行かれるであろうし、逆に不服従の姿勢を見せれば、それが討伐の原因を作る事にもなるのである。
- まず士燮は、息子の士廞を孫権に人質として預ける。この時、士燮はすでに齢70を越えている。対して孫権の方は今だ20代。言葉で言うのは簡単だが、息子より年下の相手に、自分の息子を人質として預けるのは、屈辱的な事でもある。だが士燮は、恥を忍んでそれを受け入れた。名より実を取った訳である。後年、孫権もまたこうした、恥を忍び名より実を取る外交政策を採用するのであるが、士燮からそうしたやり方を学んだのかもしれない。
- それだけなら、士燮が孫権を恐れたから・・・と言う事になりそうだが、一方で士燮は、益州の豪族である雍闓を孫呉に臣従させている。これは江東を本拠とする孫権には到底不可能な芸当であり、南海貿易を通じて、益州南部の豪族と交流のあった士燮でなくてはできない事である。さらに当時、孫権は赤壁で勝利したにも関わらず、その成果は南郡のみという状況だった。逆に劉備は若い孫権を手玉に取り、独自で着々と益州に侵攻していた。孫権は【あのペテン師めが!!】と劉備に激怒したが、曹操が素早く軍を立て直し、合肥まで進軍している状況ではどうしようもなかったのである。その状況で益州南部を士燮が孫呉に従わせたのであるから、孫権にしてみれば正に一矢報いた格好となる。この事は、士燮の力を孫権に認識させると共に、士燮の功績を認めざるを得ない状況を作り上げたとも言えるのである。
- こうして、士燮は自らの既得権を維持しつつ、孫呉の支配を受け入れるという、絶妙な舵取りを成功させた。孫権も士燮侮るべからずと感じたのか、士燮を左将軍、ついで衛将軍に封じ、人質として送られてきた士廞にも、武昌太守の任を与える。雑号将軍ではなく、高位である衛将軍の位である事や、後に呉の首都となった武昌の太守に任命したという事からも、相当の優遇である事は伺えるだろう。また士燮の方も、南方の物産を孫権に欠かさず送り届け、服従の意志を明確に表わし続けた。付け入る隙を与えなかった・・・というのが正しいだろう。孫権にしてみれば、士燮を本気で敵に回した場合、士燮が魏や蜀と結託してしまう可能性も考えなくては成らず、それは避けなくては成らない状況になっていた。逆に士燮からすると、取りあえず孫呉の支配を受け入れつつ、自分の権益が守れさえすれば良いのである。このような情勢が延々と、16年も続く事になる。
- 孫権にしてみれば、交州の完全支配は是非とも達成したかった。だが、士燮がいる間は下手に手を出せない。手を出したら、あの老獪なじじいが、どんな手を打ってくるか?、また士燮の事だから、その場合の方策も十分に考えているだろう。なんとも、やっかいな相手であった。▲▼