【 南海貿易 】
  • 士燮伝に士燮が孫権に送った贈り物のリストがあります。
    • 士燮が孫権の元に使者を送る時は、いつも数種の香や葛布が数千という数にのぼり、真珠・大貝・瑠璃・翡翠・サイの角・象牙・バナナ・椰子・龍目と言った見たこともない珍品がもたらされ、士壱からも時に馬数百匹が献上され・・・・
    なんとも凄まじい^^;。この財力の背景・士燮一族の繁栄を支えた資金源。それは、交州独自の物産と、【南海貿易】であろうと考えられます。
  • 南海貿易の歴史は古く、前漢の時代にこの地に根付いていた南越王国は、南海貿易により栄えていたと言われています。東南アジアの島々やインドとの交易は莫大な財をもたらし、漢の武帝は、南海貿易路の確保のためにこの南越王国を滅ぼし、海路だけでなく益州南部からインドへ至る陸路も開通させます。(この陸路の交易路の確保が諸葛亮の南征の主な理由とする説が多い。)正に、南海貿易は【海のシルクロード】であり、東からの二大交易路だったのです。そして士燮が太守となった交趾は、その南海貿易の中継地点として重要な土地だったのです。だから武帝の時代からここに監督府が置かれ、ただの郡太守であるにも関わらず士燮を指して交趾刺史という言い方が成されています。
  • これを裏付ける資料はかなりあります。まずは、【士燮一族が支配した土地】。
    交州刺史であった朱符が殺害されると、士燮は朝廷に上奏して自分の一族を交州の主要郡の太守にします。士壱が合浦太守、士カイ(黄有)が九真太守、士武が南海太守、そして士燮は交趾太守。もちろん交州には他にも郡があります(当時は七郡)。しかし、これらの士燮一族が太守となった郡の並びを見るとその意図は一目瞭然です。
  • ここまであからさまだと、説明の必要もないかもしれません。要するに、海岸線に沿った南海貿易の中継地点(日南を除く)を全て、士燮一族で独占している訳です。おそらく内陸の河川沿いにある蒼梧郡と鬱林郡は、海上貿易はできないため収益がそれほどないはずです。どこの郡を中継しても必ず士燮一族の土地を通らなくてはなりません。
  • 次に、【益州南部の豪族・雍闓を呉に臣従させる仲介をしたのが士燮】だ言うことです。益州と交州の通路は非常にせまく、その間には山脈が通っています。通れない事はないのですが、益州と交州の通行は禁令で閉ざされていて、許靖伝・劉巴伝を見ても、両者が交州に逃れた後、益州に入ろうとしてもなかなか通してもらえないという事態が起っています。(禁令の理由は定かではないが、おそらく交州が昔から流刑地であった点が要因としてある感じがする。)つまり基本的に通常の方法では士燮と雍闓の間に意志の伝達はかなり難しいと思えるのです。にも関わらず、士燮と雍闓の間にはなんらかのつながりがあったようです。その繋がりとは何かを探れば、おのずと、海の貿易路を独占した士燮と、陸の貿易路を支配していた雍闓の間での交易上の繋がり・・・という点が見えてきます。(諸葛亮が直接南征を行なければならなかった事、雍闓の反乱が檄文程度で収まる物でなかった事、雍闓の反乱に周辺の豪族が呼応している事などからも、雍闓がかなりの有力豪族であった事は伺える。この辺は【ニセクロさんの所】が詳しいです。)
  • そして、士燮伝に見られる士燮一族の繁栄ぶりを考えると、もはや士燮一族が南海貿易を独占する事で、その栄華を極めていた事はほぼ間違えないと言えるでしょう。