【 士燮の情報網 】
- 士燮伝に【士燮は温厚な人柄で、謙虚で驕る事がなかったので、士燮の元に身を寄せて難を逃れる者が何百人にものぼった。】とあります。この時代、戦乱を避けて江東や荊州に避難した民衆や士人が多くいた事は知られていますが、交州もそういった避難場所の候補として有力でした。士燮の元にいた(一時的にでも)人物を正史から探ってみても、ざっと目を通しただけでも、袁忠・袁徽・桓邵・許靖・劉巴・程秉といった人物が士燮の元にいた事が記されており、その他の名前が知られていない士人たちの存在も考えると、正史の【士燮の元に身を寄せた者が何百人にものぼった。】という記述は信憑性があると見て良いかと思います。では、なぜ彼らは交州刺史であった朱符や張津ではなく士燮を頼ったのでしょうか?
- それには、士燮が信頼に足る教養人だった、という点が挙げられるでしょう。士燮は、若いときに潁川の劉陶に師事して学問を学んでおり、「春秋」の注釈を行なうなど、優れた教養人でした。士燮伝の中にも袁徽が荀彧に送った手紙が載せられており、その中で【士燮は、豊かな学識を持ち、政治に精通している。】と賞賛されています。その点で決して優れた刺史とは言えない朱符や張津らより、実力も教養もある士燮の元を訪れる者が多かったのは、当然とも思えます。また弟の士壱も中央に名の知れた名士であり、士一族は名声という点でも、交州刺史を上回っていたと言えるでしょう。
- こうした士燮の元にいた士人たちのその後の動向を見ると、その去就は様々です。許靖・劉巴は益州に入り劉璋に仕え、程秉は孫権の招きに応じて呉に仕えます。また、袁忠は献帝に召されて衛尉となります。(赴任前に死去。)恐らく、それぞれの意志で自分の行きたい所に行ったのでしょうが、結果として士燮は呉にも蜀にも、そして中原にさえも、そのパイプを広げていた事になります。中央から遠く離れた交州では、そうした人との手紙の遣り取りでしか、状況把握が難しかったであろう点を考慮すると、これは、士燮にとって大変重要な情報源であったと思われます。
- 邪推すれば、士燮がそういった士人たちが、それぞれ自分の希望によって、各地に散らばるのを止めようとした形跡が全く見られない事から、士燮は人材を自分の元に留めるのではなく、彼らを情報源として活用しようとしたのではないか?とも思えます。この辺りが士燮に独立の意志がなかったと思われる由縁でしょう。もし、交州で自立し独立政権を勝ち取ろうという意志があるならば、交州刺史の座を得ようとしたでしょうし、こうした人材を自分の元に留めようとするのではないか?と思えます。ところが士燮にはそういう形跡が全く見られないのです。この辺りが遼東の公孫氏を魏・呉・蜀に続く四つ目の鼎立政権として数える説があるのに対して、公孫氏に劣らない勢力でありながら、士燮が独立勢力として数えられる事がない理由でもあります。(では、士燮が全く勢力拡大の意志がなかったのか?というと、そうとは言えない部分が多い。州の混乱に乗じて一族を交州の各郡の太守にしたのは、そうした勢力拡大の意志の表れでもあるし、また、劉巴と交趾の地位をどうするかという点で意見が合わなかったというエピソードもある。どういう点で劉巴と意見が食い違ったのかは、想像の域を出ないが、恐らく交趾太守は交趾一郡のみの支配権を持つのか、それとも交州南部の中心的役割を果たすのかという点ではないだろうか?こういう点を考えると、遼東で王を自称し独立の気風を強く持っていた公孫氏に対して、士燮は交州の実力を良く把握した上で、表だった独立行動は極力避け、実質上の半独立状態の維持に努めた、と言えるかもしれない。そういう点では、同じく交州で半独立状態を勝ち取った前漢の趙佗とも一線を画します。)
- いずれにしても、士燮はこうした情報源を持っており、中央の動静には非常に精通していた物と思えます。こうした情報網があったからこそ、士燮の政治判断力が正確であったのではないかと思えるわけです。またこうした士燮の政治判断力の正確さこそが、士燮が死ぬまで、孫呉政権が交州の直接支配ができなかった理由でもあるでしょう。▲▼