【 齢90にて大往生 】
- 士燮の政治判断力によって、士一族は孫呉に服従しながらも、その権益を保持し続けた。南海貿易の利権と交州の物産は相変わらず、士一族の物だったのである。孫権にしてみれば、交州の直接支配は念願であっただろうが、老獪な爺が相手では下手に手を出すことができない。
- だが、一つだけ孫権に有利な事があった。他ならぬ【年齢】である。赤壁の戦いの時点で、士燮はすでに70を越えていた。対する孫権は今だ20代。父と子どころか爺様と孫くらい年が離れていたのである。まあ、ほっとけばそのうち死ぬだろ?と言うわけで孫権は士燮在命中は、ひたすら士一族の慰撫に努める。
- ところが^^;。この爺が死なない(笑)。いや、それどころか一度死んだのに生き返りやがったのである。この手の摩訶不思議な話の宝庫である【神仙伝】が士燮伝に注として挙げられており、それによると、士燮は病死した。ところが、死んで三日経った時、仙人の董奉が丸薬を水と一緒に飲ませた所、なんと生き返ったのである^^;。伝が正式に立てられている人物で生き返ったという記述があるのはおそらく士燮だけではなかろうか?まあ、これは神仙伝の記述であるから、真に受ける必要はないかもしれない。だが、深読みすると、こうした伝承というのは、孫策と于吉の話の例でも分るように、ある程度その逸話が完成するに至る背景というのはあるように思う。となると、士燮がいつまで経ってもピンピンしているのを、孫権以下、呉の人間たちが、いつまで生きていやがるあの爺!!もしかしたら何か仙人の力でも得ているんじゃないのか?と、鬱々と士燮が死ぬのを待ち続けた・・・という背景はあるかもしれない。
- さすがに待ちきれなくなった孫権は、士燮が死に次第、交州併呑の計画を実行できるように、交州刺史を政治家的な歩隲から、軍人の呂岱に変更した。その後の士燮死後の呂岱の電撃作戦を見れば、これが予定の行動であった事は予想可能だろう。これが220年の事であるから、士燮はすでに84歳。孫権もすでに38歳である。そろそろ焦ってきた孫権の気持ちも十分に理解できる。それでも士燮は相変わらず健在で、士燮がついに大往生をするのは、呂岱赴任の6年後、226年の事であった。往年90歳。三国時代の人物の中では異例中の異例の長寿である。長寿として知られる孫権でも71歳で死去なのだから、その長寿ぶりが神掛かっていると当時の人が考えても全く不思議ではない。大黒柱を失った士一族は、呂岱の交州併呑作戦の前に、実戦経験のなさを路程し、ほどなく交州は孫呉の完全支配下に置かれる事となる。
- さて、息子の代の不始末まで士燮の責任に持ってくるのはいささか、酷という物だろう。よくぞここまで生き続けたとしか言いようがない。南海の怪物とさえ言って良い気がする。ここからは全くの妄想であるが、孫権はかなりの部分、士燮からその政治姿勢を学んでいるのではないだろうか?孫権伝でも述べたが、私の孫権評は、孫権は曹操・孫策などと違い、元々資質に恵まれていた訳ではなく、苦労と経験から少しずつその資質を向上させていった成長型君主である、という物である。
- 孫権がその鋭さを増し、魏と蜀を手玉に取った外交戦略を開始するのが、216年あたりから。赤壁の大論争が一体なんだったのか?と思えるくらい淡々と魏に臣従し、曹丕に象やら真珠やらの珍品を送り届けてご機嫌を伺う。こういう姿勢は、まさしく士燮が交州での権益を維持するために用いた手法である。呉と交州の立場を魏と呉に入れ替えた場合、士燮の取った手法がそのまま呉でも応用可能なのだ。この頃になると、孫権から赤壁の頃に見せた頑な曹操への対抗心というのは、姿を消している。明らかに、それ以前と以後で孫権の思考法に転換が見られるのである。まあ、長寿である点まで真似たという訳でもないだろうが、士燮と孫権の姿勢には、多くの共通点が見られるように感じるのである。
- さらに、思考を解き放てば、孫権は士燮在命中でも、交州併呑作戦は実行可能であったはずだ。呂岱を交州刺史としてすでに赴任させていたのであるから、いつでも作戦開始はできたはず。しかし、士燮が死ぬまでは交州併呑作戦を実行しなかったという点に、孫権の士燮への敬意と畏怖が見えるような気がするのである。 ▲ -士燮伝 了-