【 機を見て敏なり 】
- 士燮の一族は,元々は魯・汶陽の一族だったが、王莽の変の時に交州に移住しています。つまり士燮一族の交州での歴史は古く、士燮は交州に士一族が移住してから六代目になるわけです。士燮の父・士賜も日南太守であり、士家は土着の有力豪族だったのです。
- さて、交州の歴史について、ざっと見てみましょう。幸いな事に薛綜伝に、詳しい交州の歴史が述べられています。それと士燮伝などに分散して書かれている事などを組合わせて見ると、ある程度交州の遍歴が見えてきます。
- 交州の歴史は結構古く、秦は桂林・南海・象郡の三つの郡を設置しました。しかし、桂林というのは、どうも桂陽と鬱林付近のようで、このあたり荊州南部と交州の区別は不明です。象郡というのは分りません^^;。交州にスポットがあたるのは、秦末期にこのあたりで自立した南越王国が初めでしょう。その始祖は趙佗。【真・漢楚軍談】に詳しいです。趙佗の起した南越王国は南海貿易を背景に、漢につかず離れずで半独立状態を勝ち取ります。そして、武帝によって討伐されるまで、南越王国は続きます。
- この地を征圧した武帝は、儋耳・珠崖・南海・蒼梧・九真・鬱林・日南・合浦・交趾の九郡を設置します。同時に武帝は蜀南部からの交易路も開いていますから、この地の征圧の目的が南海交易路の確保に力点があっただろう事は想像に難くありません。そして、交趾に監督府を起き、この地に交趾刺史を置きました。しかし、このあたりの住民は完全な異民族で、【髪の毛を上で束ねて素足で歩き、貫頭の衣服を左前に着ている。言葉も様々で何度も通訳を介してやっと通じる。】と言う状態でした。そこで漢はこの地を罪人の流刑地として、流刑された漢人と異民族の融合をさせ、少しずつ漢の風習への教化を行ないます。
- 時代は流れて後漢末。中央が清流派と宦官の争いで混乱する中、交州への漢の支配力はかなり弱まっていたと考えられます。劉焉も赴任地として初め交州を考えていました。半独立状態を保ちやすい土地だったのです。そういった状態で教化政策がしっかりと行なわれる訳もなく、薛綜がこの地を訪れた当時は、男女は祭で集まった時に好みの相手を見つけて結婚する、兄が死ぬと弟がその妻をもらい受けるという、この地の風習が黙認されている状態でした。当然ちょっとした事で反乱が起きます。役人たちは、租税の徴収よりも南方の物産の収拾・南海貿易に力を注ぎ、豪族化していきました。その最も有力な一族こそが士一族だったと考えられます。
- すでにこの頃には、士燮は交趾太守でしたが、交州刺史ではありませんでした。交州刺史としては朱符という人物が赴任していましたが、孫策が江東を平定した196年頃に、蒼梧の蛮族が反乱を起し州の役所が陥落し死亡します。士燮が一族を交州の各郡の太守にするように上奏し、それが認められたのはこの時です。
- ついで漢から派遣された刺史は張津と言う人物でした。彼は荊州で劉表と対峙した張羨という人物と同郷の人で、おそらく曹操の対劉表政策の一環として任命されたと思われます。張羨と張津は結託して劉表の南下政策に対抗しますが、部下たちの反乱によってまたもや死去します。
- あくまでも交州支配に意欲を見せる劉表は、頼恭という人物を張津の後任として派遣します。また、蒼梧太守として呉巨を派遣。交州支配を目論みます。このまま劉表の交州支配を黙認する訳にはいかない曹操は士燮に目をつけ、士燮を綏南将軍とし、交州七郡の監督権を譲渡する訳です。さらに士燮は都に貢納品を送り届け、安遠将軍・龍度亭侯となります。
- やがて、蒼梧太守の呉巨は交州刺史の頼恭を追い出します。おそらく、この時期に劉表が死去して、荊州に曹操軍が入ってきたものと思われます。つまり、劉表が死んだので呉巨も頼恭を上に頂く必要はなくなったのでしょう。荊州から逃亡する劉備が、初めに頼ろうとしたのもこの呉巨です。そして、中原では孫呉の命運をかけた赤壁の戦いが行なわれ、孫権は奇跡的に曹操を追い払うのに成功します。その後、士燮は孫呉政権へ接近するのです。
- こうした交州の歴史と士燮の動きを見てみると、彼の政治感覚の優秀さが良く見えてきます。朱符の死後の交州の混乱状況を利用して一族を一気に交州主要郡の太守とし、ついで荊州の劉表と曹操の交州を巡る争いでは曹操に近づき、将軍職と実質的な交州の支配権を獲得します。そして、赤壁の戦いで孫呉が勝利すると、今度は一転して孫呉へと接近・・・。
- 士燮が中原の情勢によく通じていた事がよく分ると思います。また士燮には天下に覇を唱えるという感覚はほとんどなく、一族の安定と栄華がその行動の根元であると言えるでしょう。それを支えたのは士燮の持っていた正確な情報網。では、その士燮の情報網の正確さはどこから来ているのか?次はそのあたりを考察してみたいと思います。▲▼