【 なぜ劉繇は敗れたか? 】
  • 孫策が登場してから、江東を征圧するまでの詳細は孫策伝で書いたので、ここでは複重は避ける。だが、劉繇伝としては【なぜ劉繇は孫策に敗れたのか?】を考える必要はあるだろう。
  • 孫策対劉繇戦を順を追って見てみると、
    • 当利江・横江津の戦い(張英・樊能・于糜軍を葦や蒲で筏を作り急襲)
    • 第一次牛渚砦の戦い(牛渚砦を急襲し,物資を強奪)
    • 第一次秣陵南の戦い(笮融軍と対峙)
    • 秣陵城の戦い(秣陵城の薛礼を急襲)
    • 第二次牛渚砦の戦い(牛渚砦を再占領した樊能・于糜軍を襲い,撃滅)
    • 第二次秣陵南の戦い(孫策戦死の偽情報を用い,于茲軍を撃破)
    • 海西の戦い(海西の劉繇軍の別働隊を撃破)
    • 江乗・湖熟占領戦9.曲阿占領戦
    となる。
  • まず気になるのは、劉繇本人がどの戦いを見ても参戦していない事である。9の曲阿占領戦ではさすがに劉繇本人の参戦があっただろうが、情勢を見てもすでに機を逸しており、遅すぎたという感は否めない。今までの劉繇の経歴を見ても軍事に関しては経験が無く、軍事に関しては張英・樊能ら地元の士人と笮融の仏教勢力の力に頼り切っていたのではないか?という推測は成り立つ。
  • それに太史慈についに軍権を与えて戦う事なく、敗れたという事。太史慈はその頃すでに武名が知れ渡っていた人物であり、彼を使わない手はない。実際、太史慈はその後丹楊で独立勢力となり、孫策軍と対峙するのであるから、早い時期に孫策軍と太史慈を戦わせておけば、戦局が変わった可能性もあるだろう。劉繇が太史慈を使わなかった理由として挙げられているのは太史慈伝の中にある【太史慈殿を使えば許邵殿に笑われないだろうか?】という劉繇の言葉である。許邵は人物批評の大家であり、こう劉繇が言うということは、許邵は太史慈を高く評価していなかったという事がわかる。また許邵は劉繇の元にいたと言っても客将待遇であり、君臣の関係では無かったと言うことも分かる。おそらく孫邵や滕家の士人の登用に関してはかなりの部分、許邵の力による物が大きかったのではないだろうか?
  • しかし、最大の敗因は【戦力の分散】であろう。まず孫策を倒すチャンスというのは大まかに分けて二回あった。1回目は孫策の長江渡河戦である当利江・横江津の戦い。そして2回目は孫策が渡河した後の、秣陵城を巡る攻防である。二回とも劉繇軍は決定的なミスを犯しているのだ。
  • まず、当利江・横江津の戦い。この戦いは渡河戦であり、明らかに劉繇側の方が有利な戦いだった。だが、この戦いにおいても戦力の随時投入の様子が見て取れる。孫権夫人徐夫人伝の中には【曲阿から水軍が多数動員されてくると不利になるから、今の内に筏を作り、本物の船を補いつつ軍を渡らせるべき】という徐琨の母の言葉がある。徐琨の母はどう見ても軍事に通じた人物とは思えないが、それでも劉繇軍の戦力分散は見抜いているのである。
  • さらに秣陵城を巡る攻防では、実に決定的なミスがある。笮融・薛礼・樊能らが各個バラバラに動いているのである。まさに孫策はその点を完膚無きまでに突いた。逆に言うならば、彼らを統率する人物がいなかったということである。孫策の渡河を許した時点で劉繇自身が全軍を統括し秣陵城で対峙するか、もしくは太史慈に全権を与え笮融・薛礼・樊能らを統括して戦わせるかしていれば、まだ戦局はどう変わったか分からない。もしくは曲阿まで孫策軍をおびき寄せて戦う方法もあっただろう。いずれにしても、劉繇の敗因はそれぞれの部隊がバラバラに戦った事にあった。それに対して孫策軍は諜報力と機動力で勝り、数の上では圧倒的に勝る劉繇軍を凌駕していったのである。