【 清廉なる士人 】
  • 劉繇は、ただのエリートではない。実に優秀な人材である。その事を示す資料は多い。
  • まず、劉繇のエピソードで一番若年の物は、19才の時、叔父の劉偉が族に捕らえられ人質になったが、劉繇が叔父を奪い返して来たというものである。これなぞ、孫堅の海賊退治に通じる物があるだろう。ただのエリートではない。
  • その後中朗となり、やがて孝廉に推挙され下邑県の県令となった。霊帝の頃は三署(五官中郎将・左中朗・右中朗)の中から県令を選ぶのが通例となっていたようである。劉繇と同期で県令に任命された面々には、趙昱(広陵太守)・臧洪・王朗などがおり、まさに劉繇はエリートとして出世を約束された人材だった。所が、当時の郡の太守が、劉繇一家の名声を利用しようとしたので、劉繇はさっさと職を棄てて逃げてしまったのである。まあ名声のある家の出身だからこんな事ができたとも言えるが、不正を許さない清廉さを見ることができる。
  • その後、青州の役所に招かれ、斉南の行政監察の任に当たったが、ここでも劉繇は、賄賂をむさぼって、法をないがしろにしていた斉南の相を、上奏して罷免に追い込んでいる。また、平原の陶丘洪(とうきゅうこう、孔融らと並ぶ秀才として評判の高かった人物。)から、兄・劉岱共々、茂才に推挙され、『もし二人を得ることができたなら、二匹の龍・麒麟を得たようなもの』とまで言わせている。
  • その後、劉繇は司空の属官として中央に招かれ、侍御史(じぎょし、中央府の不正監察係。)になることが内定が決まっていた。しかし、劉繇はそれには応じなかった。おそらく中央府の混乱状態を観察し、中央に仕えるより地方に出て、力を蓄える方が良いと見たのであろう。このあたりの観察眼は劉焉に通じる物がある。やがて、劉繇は詔により、揚州刺史に任命された。狙い通りになったわけである。
  • この時期、劉繇は揚州刺史として、使える部下を集めていたと思われる。後の呉・初代丞相となる孫邵(そんしょう)や是儀(しぎ)・滕耽(とうたん)・滕冑(とうちゅう、二人とも後の太常・滕胤の祖先)といった面々が劉繇に付き従っているのである。さらに樊能や張英・笮融と言った地元の士人や宗教勢力も傘下に治めているし、当代きっての人材批評家である、許邵や豪傑として名高い太史慈などなど、なかなかに優れた人材が劉繇の元に集っていたのである。