【 劉繇の戦略 】
  • 劉繇が揚州刺史として赴任した当初、【呉景と孫賁が劉繇を曲阿に落ち着かせた】という記述がある。ということは劉繇が揚州刺史として赴任した当初は劉繇と袁術は特に敵対関係にはなかったと思われる。またその頃から、長江以南の丹楊・呉・会稽・豫章の各郡を巡って、袁術・劉表らが触手を伸ばし、漢の任命した太守との間で争乱が頻発するようになる。
    • 丹楊郡
      元の丹楊太守・周昕を袁術の指名した丹楊太守・呉景と丹楊都尉の孫賁が追い出し、周昕は故郷の会稽に逃げた。
    • 呉郡
      都尉の許貢が呉郡を乗っ取り、元の呉郡太守・盛憲は野に降る。この頃、朱治が呉郡都尉として袁術から任命されており、許貢と朱治がどういう関係にあったのかは不明。その後、許貢は孫策に討伐されている事から、特に袁術の指名した太守という訳ではなさそうである。ただ時期的に許貢が反乱を起した背景には、丹楊・豫章での争乱を利用したということがありそうな感じがする。
    • 豫章郡
      元の豫章太守・周術の病死に従い、劉表の後援を受け、諸葛玄(諸葛瑾・諸葛亮らの叔父)が太守となるが、漢から正式に朱晧が豫章太守として任命を受ける。【献帝春秋】によると、朱晧は劉繇の兵を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は劉表の元に身を寄せる事となる。だが、同時に馬日テイにより、華歆が豫章太守として任命されたのもこの頃である。華歆については自身の口述で【劉繇殿に任命された・・・】とあり、劉繇が直接任命した可能性もある。時系列的に時期が重なり、この時期豫章郡を実際に誰が支配していたのかは不明。
    • 会稽郡
      漢から任命された会稽太守・王朗の統治が安定して続いている。
  • 王朗が統治していた会稽郡を除くと、丹楊・呉・豫章郡のいずれの郡も統治権を巡り、袁術・劉表らと漢から任命された太守たちの間で紛争が起きていた。そのいう中で、劉繇は揚州刺史として赴任してきたわけである。おそらく袁術としては、劉繇が袁術旗下として行動してくれる事を望んでいたっぽい節もあるが、名士・劉繇からすれば、袁術が独自に太守や都尉を任命している行為を見逃せるはずはなかったと言ってよい。
  • また劉繇が寿春には行かず、長江を渡って曲阿に役所を置いたと言うことから見ても、彼がかなりの戦略眼を持っていた事は伺える。彼の叔父・劉寵は会稽郡太守として名声の高い人物であり、劉繇が統治していける基盤はある。また長江を挟んでしまえば、袁術の統治も完全には行き届かない。その後の孫策との戦いでも劉繇はかなりの数の水軍を保有していた事が伺え、長江を挟んで水軍を用いて袁術と渡り合うという構想を劉繇は持っていたと言ってよい。おそらく張英・樊能・于糜と言った人材はそうした水軍の扱いに慣れた地元の士人であったろう。
    • (注)当時の袁術と劉繇の戦略について再考察。
      まず、袁術から。まず丹陽は呉景・孫賁コンビで力づくで実地支配した。丹陽には確実な袁術支配権が存在している。
      次に呉郡。呉郡では都尉の許貢が太守の盛憲を放逐するという事件が勃発している。で、ほぼ同時期に馬日テイにより朱治が呉郡都尉に任命されている。以前は朱治の呉郡都尉任命は遥任(実際の任地には赴かない任命)で、朱治は孫策と行動を共にしていると考えていたが、これは「朱治は孫策の部下」という先入観から来る思い込み。論理的に考えればすでに丹陽を実地支配している袁術勢力の一員として実際に呉郡に赴き都尉となったと考えるべきだ。孫策の江東制圧戦の際、「朱治は銭唐から呉に進行し・・」と朱治伝にあることから任地はおそらく銭唐である。
      で劉繇の話になるが、劉繇は馬日テイにより揚州刺史に任命された。任地は曲阿。曲阿は丹陽郡と思われがちだが、行政区分で言うと呉郡である。つまり劉繇の曲阿入城のためには、呉景・孫賁の協力だけでなく、許貢とも協調関係が構築できなければ無理である。つまり「許貢は袁術派であった」と考えると、つながってくる。でなければ、反乱を起こした都尉が太守になったというのに、空席となった都尉の座にすんなり朱治が収まるなんてことはあり得ない。ということは、呉郡においても太守に許貢、都尉に朱治の状態で、袁術の支配は確定している。
      最後に豫章。豫章は一番ややこしい。当時、豫章には、袁術により任命された諸葛玄と、朝廷(長安)から任命された朱晧、それに馬日テイにより任命されたという華歆の三人が太守の候補として名前が挙がるという、非常に複雑な情勢である。整理していこう。まず間違いないのが「諸葛玄を討伐したのは朱晧」。華歆ではない。つまり時系列でいうと、①諸葛玄→②朱晧→③華歆の順なのは間違えない。問題はその時期。
      朱晧は劉繇から兵を借りて諸葛玄を討伐した・・とある。ということは、劉繇が袁術に反旗を翻して以降の事になる。おそらく呉景・孫賁の追い出し、許貢の丸め込み、そして諸葛玄討伐、これらを同時期に実施し、劉繇は、丹陽・呉・豫章の三郡の支配権を一気にひっくり返したのだ。見事である。逆に言うと、劉繇が反旗を翻さなければ、丹陽・呉・豫章の三郡において袁術の支配権はほぼ確立していたのである。
  • こうして、反撃体制を短い間に整えた劉繇は、張英を当利口・樊能・于糜を横江津に駐屯させ、袁術軍の侵攻を長江を挟んでくい止める一方で、袁術旗下である呉景と孫賁に圧力を加え、丹楊郡から追い出すのに成功する。袁術は独自に揚州刺史を任命して、呉景と孫賁に失地回復を命じて、張英らを攻撃させるが、水軍の能力差を埋めることが出来ず、何度攻撃しても打ち破る事はできない。
  • また、この劉繇の成功の影に曹操の影がちらついて見える。荀彧伝には、【荀彧は劉繇を味方につけ、袁術を討伐しようと考えていた・・・】という記述があり、かなり早い時期から揚州刺史の劉繇に注目していた節がある。この後、劉繇は揚州牧(刺史と違い、実質的な軍権を持つ)と振武将軍の官位を加えられ、配下の軍勢は数万人を回るようになる。この昇進を働きかけたのは曹操と見てよいだろう。長江の要害を頼りに、地元の水軍の扱いに慣れた士人を登用、さらに劉家の名声を利用して許邵・太史慈などの名高い士人も劉繇陣営に参加。そして実質的に漢の政権の中心人物となりつつある曹操と連合して袁術を討つ・・・。ここまでの劉繇の戦略には一辺の曇りもなかった。あの風雲児・孫策が登場するまでは・・・・・。