【 昇らぬ太陽 】
  • 孫策の怒濤の攻撃の前に曲阿を追われた劉繇。だいたい劉繇の群雄としての生命はそこで尽きたと言ってよいだろう。実際、演義でも正史系の小説でも、その後の劉繇などあって亡きような物である。しかし、正史をよく見てみると、曲阿を追われた後、結構長い間、劉繇は揚州で一勢力として存在していた事がわかる。
  • まず曲阿の戦闘に敗れた劉繇は、一旦丹徒に逃れた後、許邵の進言に従い、豫章郡に逃亡する。初め劉繇は親しい間柄にある王朗の支配する会稽郡に逃亡する気だった。だが、会稽郡は孫策が触手を伸ばしつつある上に、退路がなく、曹操や劉表とも連絡が取れない。それよりは曹操や劉表の援助が見込める豫章郡の方が、何かと良かったのである。
  • だが、豫章郡の支配を巡っては、なんともややこしい状態にあった。まず、豫章郡太守というのはその時期三人存在している。
    • 諸葛玄(しょかつげん)。諸葛亮・諸葛瑾らの父。袁術の任命という記述と劉表の任命という記述があり、その辺ははっきりしない。いずれにしても正式な官史ではなかったようである。朱晧との豫章郡支配の争いに敗れると、劉表を頼って襄陽に逃れた。
    • 朱晧(しゅこう)。後漢の大尉・朱儁の子。彼は正式に漢から任命された官史のようである。劉繇が豫章に逃れてくる頃、実際に豫章郡を支配していたのは朱晧のようである。
    • 華歆。一般的にこの時期の豫章郡太守と思われているが、どうも実際には彼が豫章郡太守となったのは、劉繇死後の話と見て良さそうである。彼自身が【私は劉繇殿に豫章太守に任命された】と言っており、(ただし江表伝の記述。陳寿の本文では、彼は袁術が寿春に勢力を持っていた頃に、すでに豫章太守に任命されている。しかしそうなると朱晧の豫章太守任命の時期と重なり、また劉繇が豫章に逃れた頃の豫章の実権は朱晧が握っていた事は明かである。)劉繇が豫章に侵攻した後で朱晧の後を継いで、劉繇の認可を受けて豫章太守になったと見るべきかもしれない。
  • そういう訳で、すったもんだの末に劉繇がやってきた頃は豫章郡の実権は朱晧が握っていた。劉繇は、正式な豫章太守である朱晧と敵対するつもりはなかっただろう。その証拠に彼は朱晧の本拠である南昌には行かず、彭沢(ほうたく)に軍を置いている。ところが、ここで【南の呂布】こと、笮融が反乱を起す。笮融は、朱晧を殺して南昌を占領。そこで自立したのである。その頃にはすでに太史慈は劉繇の元を離れ、丹楊で独立勢力となっており、劉繇の権威は曲阿脱出後は一気に下落していたということが分かるのである。一度落ちた太陽はそう簡単には昇らない。彼の群雄としての生命は曲阿で終わっていたのである。結局、劉繇は融の反乱に振り回され、まるで笮融と心中するかのように、笮融の反乱鎮圧後に死去した。時に劉繇42才であった。