【 劉繇が残した物 】
  • 劉繇は、豫章で死んだ。だが一つ謎が残る。それは【なぜ孫策は劉繇を生かしたままにしたのか?】ということである。考えてみれば、孫策の江東支配の第一標的は劉繇だった訳で、その劉繇が豫章に逃亡している以上、挟撃される危険性を犯してまで、先に王朗や厳白虎を攻撃するのは解せない所がある。純粋戦術的には劉繇を倒してから、王朗や厳白虎を討伐するのが自然と思える。ということは、劉繇を残したおいたのは、戦術論的な問題からではなく、戦略的問題から劉繇を攻撃としなかった、と見るべきだろう。ではその戦略的問題とは何か?
  • つまりそれこそが、劉繇伝が呉書において、皇后や親族を先置いて、当主伝の後に真っ先に書かれている理由、つまり【劉繇の持つ正当性を孫呉が受け継ぐ】という目的のためであろう。孫策の劉繇討伐はあくまでも袁術軍の一員としてであり、そのままであるなら、孫策には揚州を支配する正当性は存在しない。いずれ袁術からの独立を目指す孫策としては、劉繇・王朗ら、正式な揚州の官史たちを無碍に扱う事はできなかったのである。それが劉繇をそのままにした理由であり、王朗を殺さず曹操の元に逃れさせた理由ではないだろうか?後に孫策は、黄祖討伐のあと、劉繇の柩を受け取って遺族の元に返し、劉基ら劉繇の一族の者たちを手厚く処遇したという。その孫策の行動に対して、曹操の元に逃れた王朗も和解と取れる手紙を送っている。
  • 結果として、劉繇は孫呉政権に対して多大な財産を残していった。大きく分けると
    • 太史慈・劉基・孫邵・是儀・滕耽・滕冑など、劉繇配下にあった士人たちを登用できた事。
    • 孫策の江東独立において、劉繇の後を受け継ぐという正当性を得た事。
    この二点であろう。太史慈ら元・劉繇陣営の人材が孫呉政権で果たした役割は言うに及ばず、初期の孫呉政権において、劉繇の正当性を受け継ぐという大儀が重要な意味を持っていた事は間違えないと言えるだろう。 -劉繇伝 了-