【 なぜ太史慈が群雄扱いなのか? 】
- 太史慈,字は子義(しぎ)。徐州東來郡の出身である。
- 伝に入る前に、三国志演義を知っている人なら、【太史慈は呉の武将でしょ?なんで群雄伝に出てくるわけ??】と思うだろう。実は孫ぽこも正史呉書の目次を見たときに、まず始めに感じた疑問はそれだった。
- -なんで太史慈が劉繇や士燮と同じ所に書かれているのか?-
- これを考えるには、まず孫家と呉の支配権をかけて争った群雄たちについて書かれているのが呉書第四節【劉繇太史慈士燮伝】であるという認識を改める必要があるかもしれない。よく考えれば、孫家と江東で争ったのは彼らだけではない。太史慈が孫策と戦ったから・・・というのなら、許貢・祖郎や厳白虎、さらには黄祖だって伝に乗る資格がある。(さすがに小物すぎて載らないのかもしれないが^^;)一般的に、紀伝体の史書において、皇帝・皇后伝のあとには、支配権をかけて争った群雄の伝が来ることが多いので(例えば・・・漢書においては、列伝のトップは陳勝・項籍伝が来る。魏書でも同じ事言えるだろう。)そういう印象をもってしまうのであり、呉書においてもそうだとは言い切れないのである。
- もう少し単純に事を考えると分かり易くなってくる。要するに伝の順番は基本的に【重要な人たち・もしくは建国において功績の大きかった人たちが先に書かれている】のである。だから皇帝伝・皇后伝の後は、建国の戦いの歴史が重要なら群雄の伝が来る。もっと他に重要な人物がいたのなら、その人物が真っ先にかかれても良いわけだ。
- 魏や漢の場合、建国の戦いの歴史がそのまま建国の歴史であり、覇権をかけて争った項籍や董卓・袁紹らの伝は欠かせない。しかし、呉や蜀の場合、建国の戦いと言っても漢や魏ほど大規模なものではなく、そんなものを大げさに書いてもどうしても見劣りがしてしまう。そこで蜀書においては劉二牧伝という形で劉備伝の前に劉焉・劉璋伝を持ってくる事によって、蜀の正しさが浮き彫りになる形体を取り、呉書においては、呉の建国において基盤と正当性を引き継いだという意味で、劉繇太史慈士燮伝が来る・・と考えた方が良さそうである。
- と・・・来てもやはり太史慈だけこの中では異質という感じは否めない。劉繇は江東の基盤を引き継いだという意味で、士燮は呉の交州経営においての功績という意味で分かるとしても、太史慈は微妙すぎる。しかし太史慈はここに書くのが適当であると判断されたから、劉繇らと同列に書かれている訳だ。では太史慈の持つ重要性とは何か?
- まず、はっきりとしているのは、太史慈は程普・黄蓋ら呉将伝に入れるにはちょっと異質であるということが言える。程普・黄蓋らは呉の武将として功績を挙げた人物たちであるのに対して、太史慈ははっきり言うと、呉の建国の戦い自体にはあまり目立った功績はない。なんせ赤壁の時にはすでに病死している。太史慈がすごかったのは、彼が呉政権に参入する前から天下に勇名が鳴り響いていた人物だったという所だ。これだけ勇名のある人物が呉に参入したと言うところがポイントなのである。こう考えると孫策と太史慈の一騎打ちが生き生きと呉書の中で書かれている理由もはっきりしてくる。太史慈がすごかったから、孫策のすごさが浮き彫りになるのだ。一騎打ちをした相手がどこぞの盗賊ならそんなに力入れて書く必要もない。やはり太史慈と一騎打ちをしたと言うところがポイントなのである。
- さらに付け加えるならば、劉繇の基盤を孫呉政権が引き継ぐ上で、太史慈が果たした役割は我々が思う以上に大きかったのではないか?と言うことだ。太史慈伝の中で最も字数も注釈も多いのが、太史慈が元劉繇軍の兵たちを孫策に帰順させた経緯である。太史慈と孫策の美談という事で考えられがちだが、よく考えればこの功績は非常に大きいと言える。
- この二つの点、【太史慈の持つネームバリュー】と【孫呉と劉繇の持つ基盤との仲介役】としての意義が太史慈が劉繇・士燮と同列に孫家三傑・孫呉の皇帝たちの伝の後に真っ先に書かれている理由ではないだろうか? ▼