【 天子の階を登るべきものを・・・ 】
- さて、元劉繇軍の残兵の獲得に成功した後は、以前から根強かった【太史慈信用できず】という孫策軍内の風評も一掃されたようで、この後、太史慈は、海昏・健昌(豫章郡の西部)の六県を統率し、新たに建昌都尉に任命された。
- 豫章郡西部と言えば、荊州の劉表との国境にあたり、その地域の都尉となると、ほぼこの地域一帯の軍権を任されたという事に等しい。実に重要な役割である事がわかる。それと、もう一つ分かるのは、太史慈は長江流域の軍権を持たせるよりも、陸続きの地域の軍権を任せた方が良いと孫策が判断した・・・と言えるかもしれない。確かに太史慈の出身は青州であり、周泰や蒋欽のような地元の武人ではなく、またそれまでの戦歴からも陸戦を得意としていたと考えられる。よって太史慈を最も活かせるのは荊州との国境にあったのかもしれない。
- 建昌都尉となってからも、太史慈の武勇は健在であった。太史慈が赴任するまでは豫章西部には劉表の甥の劉磐がしばしば、国境を越えて豫章西部に侵入していたのであるが、太史慈が来てからは、全く隙がなくなり劉磐は以後豫章から姿を消したのである。
- さて、太史慈が建昌都尉になってからほどなく、江東の麒麟児こと、孫策が急死する。孫策を失った孫呉政権は混乱し、多くの反乱・謀反が相次いだが、ここで太史慈が動く事はなかった。孫権は太史慈に南方地域(荊州・交州との国境付近)の軍権を引き継がせ、太史慈は在官のまま、建安で206年に死去した。特に戦死であるという記述はなく、おそらく病死である。年齢は41才であった。特に若死にという訳ではない。やはり、太史慈は生まれてくるのが早すぎた・・・という気がする。
- 三国志演義では、太史慈は赤壁後に魏呉の戦いにおいて、張遼の罠に嵌り戦死した事になっている。張遼の知略に敗れたのだからあまり名誉な死に方ではないかもしれないが、それでも太史慈ほどの勇将なら赤壁にも参加した事にして、戦場で死なせてやろうという親心とも言えなくもない。一応、一騎打ちでも負けてはいない。ただ、【太史慈は赤壁前に死んでいる】事と【太史慈が負けたのは孫策に対してだけである】事は声を大にして言いたい^^;。大体、呉の武将は過小評価されすぎである^^;。
- 最後に太史慈が当時第一級の勇将として、名声を上げていた事を示す逸話をもう一つだけ紹介したい。相手はあの【人材収集の第一人者】曹操である。曹操は、太史慈の勇名を聞いて、どうしても太史慈がほしくなり、太史慈に手紙を送った。その手紙というのが実に曹操らしい。ただ【当帰】という薬草が入っていただけであった。これは明らかに謎かけであり、その意味は【北(青州)に戻って、私に仕えないか?】という意味である。それに対する太史慈の反応は一切書かれていないが、太史慈の経歴を鑑みるに・・・可能性として・・・ひょっとしたらひっょとしたかもしれない^^;。おそらく送られてきた時期は、孫策が死去して孫呉政権が揺れていた時期、つまり華歆や虞翻に曹操からのラブレターが届いていた時期だろうと思う。
- 私が見る限り、太史慈という人物は孫呉の一介の武将としてより、後漢末期を生きた勇将という位置づけが最もふさわしい感じがする。そういう意味では孫呉に仕えてからの彼は以前の彼の持っていた輝きが失われている感は否めない。しかし、太史慈伝の最後には、彼の心の声とも言える注釈がついている。【呉書】によると、太史慈は死を迎え、『大丈夫(漢)たるもの、生を受けたからには、七尺の剣を帯びて、皇帝となるべく戦うべきだと言うのに、私はこんな所で死んでしまうのか!!!』と言ったという。おおよそ、孫呉の武将として重宝され、彼が満足していたとは思えない逸話である。やはり彼は、本当は孫堅や孫策のように国を興し、群雄として乱世を戦いたかったのではないだろうか?その羨望から最も、自分の理想とする生き方に近い道を歩んでいた孫策に共鳴し、彼に仕えた・・・・そんな気がするのである。
▲ -太史慈伝 了-