【 太史慈が劉繇に冷遇された理由 】
- 孔融の自滅に伴い、孔融陣営から抜け出した太史慈が、次に仕えるべき人材として選んだのが、劉繇である。劉繇伝で述べたように劉繇はエリートの中のエリートというべき家系の人物であり、太史慈と同じ東來郡の出身であった。当時は土地の結びつきというのは大変強く、同郷でしかも名門の出身で名声もある劉繇に仕えたのは非常に自然な流れと言える。
- ところが、太史慈は劉繇の元でなぜか優遇されない。おそらく問題になったのが、太史慈の持つ経歴と劉繇陣営の構成の問題である。まず太史慈の経歴でマイナスポイントがいくつかある。一つは【上奏文破り捨て事件】であり、もう一つは【孔融陣営を見限ってきた】という点だろう。それが劉繇が【太史慈を使ったりすると許邵殿に笑われたりしないだろうか?】と思った理由であり、許邵が太史慈を評価しなかった理由であるはずだ。
- そしてもう一つの問題が劉繇陣営の構成の問題である。まず第一に劉繇陣営で一番の発言力を持つ人物が、人物批評の大家である許邵であり、その許邵に太史慈が評価されていない以上、太史慈が要職に就く可能性は非常に低かった。
- しかし、悪名の高い人物は劉繇陣営では使われていなかったかというとそうでもない。例の急進的仏教勢力の笮融は劉繇陣営に加わるまでに相当な悪行を重ねているが、それでも劉繇軍の主力として使用されているのである。なぜ笮融は重宝されて太史慈は冷遇されたかという理由は何だろうかと考えると、それはつまり【保有兵力】の問題であろう。劉繇が曲阿に赴任して以降、最重要課題はどうやって兵力を蓄えるかであったのではないだろうか?兵力がなくては強大な袁術陣営に対抗するすべもなく、その兵力を得るためには笮融のような人物でも重宝して使わざるを得なかった。それに対して太史慈は保有する兵力はほとんどなく、持っているのは太史慈自身の持つ勇名であった。これが劉繇陣営ではなく、曹操や孫策陣営なら【能力至上主義】でもって、太史慈が優遇された可能性はあるが、儒教的価値観による人物評価と物理的な兵力優先の劉繇陣営では太史慈の持つ重要性は非常に低かったと言えるのではないだろうか?
- そういう訳で、太史慈は劉繇陣営に参入したものの、重要な役職には就けてもらえず、斥候(偵察)の任しか与えてもらえない。そうこうしているうちに、風雲児・孫策により、劉繇軍は敗戦を重ね、ついに曲阿で防衛戦を張るにまで至る。
- ところが、その斥候中に太史慈は一発大逆転の大チャンスを拾ってくる。なんと同じく偵察中だった孫策とバッタリと出会わせ、そこで派手な一騎打ちをやってのけたのである。詳細は【 孫策伝11-太史慈と許子将- 】に書いてあるので複重はさけるが、この孫策と太史慈の一騎打ちは、正史三国志の中に出てくる唯一の大物同士の一騎打ちであり、こんな事は、普通ならまずあり得ない^^;。数名の部下だけを従えて、大将の孫策がフラフラ出歩いているのも異常事態だし、その孫策一行に14対2(孫策は13人部下を従えていた。太史慈は一人だけ。)で、ためらい無く、孫策に向かっていく太史慈も相当なキレ具合なのである^^;。孫策にも太史慈にも同じ系統の匂いがプンプンしている(笑)
- (注)なぜ、太史慈が冷遇されたのか?を別の角度から見てみる。【そもそも太史慈って大軍を統率するのは向いてないんじゃね?】という・・・身も蓋もない考察ですw
太史慈の戦績見ると、意外なほど「軍を率いた経験がない」。単独で救援の使者に出向いたり、単独で一騎打ちに挑んだりはしているが、軍を率いてない。唯一、丹陽で独立した時に軍を率いて孫策と対峙しているが、その際の記述はほとんどない。対峙したと言っても実際にはゲリラ戦のような戦い方をしていたと思われる。黄祖討伐の際も、孫策に付き従ってはいるが、軍を与えられた様子がない。むしろ豫章への使者となっている。腕っぷしが強く、機転は効くが、大規模な軍を率いるには、統率力に課題があった・・・と考えることはできないだろうか?だとしたら斥候のような役目しか与えられないというのも、当たり前ということになる。
- (注)なぜ、太史慈が冷遇されたのか?を別の角度から見てみる。【そもそも太史慈って大軍を統率するのは向いてないんじゃね?】という・・・身も蓋もない考察ですw
- この一騎打ちは結局、セコンド陣の乱入?により引き分けとなり、太史慈は千載一遇のチャンスを逃してしまう。劉繇陣営が逆転勝利する唯一のチャンスであったと言えよう。その後、劉繇は曲阿を脱出して、豫章郡に逃亡する事となる。 ▲▼