【 太史慈の誤算 】
- 丹楊で独立した太史慈の誤算は、おそらく【孫策があまりに早く呉・会稽を平定して丹楊に引き返して来た】事だろう。特に会稽郡は淅江という要害がある上に、領地もだだっ広く、孫策と言えど平定には時間がかかると思われた。ところが、時系列を追っていくと、どう考えても、孫策は長江を渡って江東征圧の軍を起してから一年ほどで丹楊・呉・会稽郡まで手中に収めている。この速さは太史慈でも予想不可能だろう。そういう訳で、196年には孫策は太史慈討伐を始めていたのである。(ちなみに孫権が山越賊に襲われ、周泰が大怪我を負ったのはこの太史慈討伐戦の時。陽羨県は丹楊郡の東側であり、太史慈の支配下ではないが、太史慈が行ってきたゲリラ作戦の一端が功を奏していた感じである。)
- 太史慈討伐戦には呂範ら歴戦の武将が参加しており、かなり大規模な物だったようである。戦いの推移はどこにも書かれていないので分からないが、涇県の勇里と言うところで、太史慈軍と孫策軍は激突し、そして太史慈は敗れ捕虜となった。縄に縛られて太史慈は孫策の前に連れて行かれる。当然、死を覚悟したであろうが、孫策が発した言葉は予想外の言葉だった。
- 孫策は太史慈の縄をほどくと
- 「神亭(一騎打ちをした所)の事は覚えているか?もしあの時貴方が私を捕らえていたらどうしただろうか?」
- 「想像もつきませんな。」
- 「では貴方が私にしたであろう処分を取ろう。」
- 孫策はその場で太史慈を折衝中郎将(中郎将は将軍の下になる役職。当時の孫策はまだ将軍職に就いておらず、自称会稽太守に過ぎない。そういう意味では投降したばかりの武将に与える職としては破格と言える。)に任命して兵士を預けたのである。これは相当な優遇であると言えるだろう。ここまで孫策が太史慈をほしがった理由は一重に太史慈と孫策はウマが合った・・・ということではないだろうか?その後、孫策は太史慈に豫章郡の情勢偵察の任を与えるが、その信頼ぶりというのは、太史慈の本質をすっかり、見抜いているとしかいいようがない物がある。やはり、孫策と太史慈は根本的によく似た気質を持っていたということなんじゃないだろうか?そうでなければ、これまで仕える君主を度々変えて来た太史慈が、孫家に降ってからは、すっかりおとなしくなってしまった理由が乏しいのである。 ▲▼