【 我に大志あり 】
  • 曲阿を追われた劉繇一行は豫章郡に逃れる。当然、太史慈もそれに付き従うものと思いきや、蕪湖のあたりで太史慈は行方をくらませてしまう。そして、山中に隠れた太史慈は自らが丹楊太守であると名乗ったのである。
  • この太史慈の行動は太史慈の生涯の中でも最も謎の多い部分だろう。普通なら、劉繇に付き従って豫章郡に行くのが筋というものである。また、太史慈を冷遇した劉繇に見切りをつけたのなら、故郷に帰るなり、どこかの軍に属するなりするのが一般的だ。ところが、太史慈はそのいずれの道も取らず、独立の道を選んだのである。これは正に太史慈の天下の群雄たらんとする大志であり、野心だっただろう。
  • この時期、太史慈の他にもう一人、劉繇軍を離脱し独立した者がいる。急進的仏教教祖・笮融である。彼の場合は非常にあからさまで、正式な豫章郡太守・朱晧を殺害しての独立だった。笮融の場合は、漢の権威とか名声とかいう判断基準はない。目の前に獲物があれば、飛びかかるのが笮融である。しかし、太史慈の場合は同じ野心を持っていても、その表現の仕方がクレバーである。
  • 丹楊太守を名乗った所がポイントになる。よく考えれば、この時期、正式な丹楊太守は不在なのだ。正式な丹楊太守であった周昕は、袁術の指名した丹楊太守・呉景によってその座を追われ、会稽郡に逃亡している。その後、劉繇は曲阿に役所を置いたので、特に丹楊太守は重要ではなく、誰が太守だったのかはハッキリしない。いたとしても劉繇旗下の者だったはずである。ところが、袁術によって派遣された孫策により、(当時は孫策はまだ袁術から独立しておらず、孫策の思惑はどうあれ、袁術旗下の将の一人だった。)劉繇一行は丹楊を追われ、豫章に逃げた。となると、漢からみると、丹楊は太守不在になる。そこに元・劉繇軍の将である太史慈が、丹楊太守を名乗ることは、劉繇への不忠ではあっても、微妙な線で漢王朝への不忠には直結しない。うまく孫策を追い払えたら、その功績で太史慈の行動は正当化可能なのである。
  • では、太史慈はどうやって孫策と対峙するつもりだったのか?彼の経歴を見ても勝算なく、無茶をやってのける人物ではない。無謀の裏にキチンとした計算があるのが太史慈である。まずその勝算の一つ目は【孫策軍の動向】である。孫策は劉繇を追い出したあと、丹楊に留まる事無く、一気に呉郡と会稽郡の平定に乗り出した。これは呉郡太守・許貢や会稽郡太守・王朗、それに豫章に逃れた劉繇らが、共同で打倒・孫策に動き出す前にそれぞれを各個撃破するためであったのだが、結果として丹楊は手薄になっていた。特に孫策は抹陵→曲阿→呉・会稽と抹陵から東に向かって進軍したため、抹陵より西の6県はまだ未統治だったのである。まずはその未統治地帯を狙うのが太史慈の戦略であった。そういうわけで、太史慈は丹楊の西側の涇県に屯府(軍事機関)を置いた。
  • 次に【山越賊の糾合】である。太史慈は劉繇の元でも要職にはなかったため、個人で持つ兵力は非常に少なかった。そのため独立するには、どこかから兵力を補わなくてはならないのだが、太史慈はそれを山越賊でまかなおうとした。古来、丹楊郡は強兵を産出する事で有名で、曹操も丹楊から兵を補給したりしているのだが、丹楊兵というのは傭兵集団である。ではその傭兵集団がなぜ強兵であったかと考えると、おそらく、そのほとんどは丹楊の山越賊ではないかと思われる。元々がアウトロー集団なのだから、金のために雇われ兵士をするには丁度良いのだ。そして戦いには慣れているから当然強い。太史慈はそこに目をつけた。おそらく太史慈は孫策を追い出したら漢から金が出るような事を触れ回ったと思われる。こうした背景から、太史慈の元には多くの山越賊が帰属したのである。
  • こうした点を考えると、太史慈というのは孫堅や孫策と同じ、武名によって成り上がってきた野心家という一面が強く見えてくる。もし彼に優秀なブレーンがついていたら、もしかしたら江東に覇を唱えたのは、孫家ではなく太史慈だったかもしれない。だが、残念な事に太史慈には周瑜・張昭のようなブレーンがいなかった。それが太史慈が孫家に従属する事になった最大の理由ではないだろうか?