【 孫賁はいつ豫州刺史となったのか? 】
- 反董卓連合参加時の孫賁の軍功は書かれていないのではっきりしないが、孫河は先鋒を務めたとあり、孫香は戦功を立てて郎中に任じられたとあるので、孫家宗室はいずれも前線にいた。孫賁も同様であろう。ところが、191年に孫堅が戦死する。通常、孫堅が死去したなら後継ぎは長子の孫策がであるが、そもそも反董卓連合への参加自体が私的な行動であり、その経過で任命された豫州刺史・破虜将軍というのは袁術が上奏して与えた官位であった。つまり孫家の都合ではなく袁家の都合で孫軍閥の頭領は決められたと言って良い。
- では、孫堅死後、孫堅軍閥はどうなったのか?孫堅死後の孫賁の動きを追ってみる。
- 孫堅死後、孫賁は残った軍勢を率いて袁術のもとに身を寄せ、袁術は再び上奏して孫賁を豫州刺史に任じた。(孫堅伝)
- 孫堅死後、孫賁は残された軍を率いて、棺を故郷に送り返した。後に袁術が寿春にその本拠を移すと、孫賁もその配下に入った。袁紹が周昂を九江太守にすると、袁術は孫賁に攻撃させ、これを打ち破った。袁術は上奏して孫賁を豫章刺史に任じた。(孫賁伝)
- 孫堅伝の記述を読むと、孫賁は孫堅死後、すぐに袁術旗下に加わったかのような印象を受ける。だが、孫賁伝の記述をよくよく読んでみると、孫賁が孫堅死亡時にやった事は、軍勢をまとめ上げ、孫堅の遺骸を故郷に送り届けただけである。そして袁術が寿春にその本拠を移したのは、193年の事であるから約2年のブランクが生じる事となる。はて?どちらの記述が正しいのだろうか?
- ポイントは孫賁が豫州刺史に任じられた時期である。孫堅死後、豫州刺史として名前が挙がってくるのは、劉備・郭貢・孫賁の三名である。そのうち、劉備は194年と断定できる。上奏者は陶謙。郭貢も194年の段階で、兗州の情勢を探るために荀彧と面談をしているので、194年の段階で二名の豫州刺史がいた事になる。豫州に関しては、すでに袁紹と袁術が双方、豫州刺史を任命した経緯があり、この194年の段階でもなんらかの形で2名の豫州刺史が併存していたと考えられる。
- 問題はなぜ先任の孫堅は191年に死去しているのに、194年の段階になって急に2名の刺史が誕生しているのか?である。つまり、194年の段階で前任の豫州刺史がいなくなったから・・・と考えられる。それは誰あろう、孫賁と考える事ができる。というのは、孫賁は後に丹楊都尉に転任しているのである。おそらくその時期は193年末で、呉景=丹楊太守・孫賁=丹楊都尉というコンビで、袁紹の任命した丹楊太守・周昕を追い出すのに成功している。という事は、孫賁の豫州刺史就任時期は193年までであり、任命時期はそれ以前。つまり孫賁伝にあるように、193年になって袁術が寿春攻略を行い、九江太守・周昂を孫賁に攻撃させてから豫州刺史に任じたのであれば、孫賁の豫州刺史就任時期はあまりに短い。しかも孫堅が死去してから2年近くも豫州刺史が空席だった事となり、あまり自然な解釈ではあるまい。その間は陰夔(豫州刺史だが任期不明)が刺史だったと考える事ができない訳ではないが根拠が薄いだろう。つまり、孫賁は孫堅死亡時に豫州刺史を受け継いでいると考えるべきという事になる。
- 実は呉景伝でも孫策伝と内容の食い違いが起きるという現象が起きている。(呉景伝2【 孫策伝との食い違い 】参照。)それと同様の事が孫賁伝と孫堅伝でも起きていると言えるだろう。事実関係は合っているのだが、孫賁伝を読むと孫賁が袁術旗下の一員だったという印象を強く受ける書き方となっている。わざとそれをねらって書かれているのか?個人の伝においてはその人の功績をクローズアップする書き方がなされているだけなのか?は図りかねるが、こうした場合、大体は本紀の記述を信用する方が無難である。▲▼
- (注)呉書において「本記は陳寿が手を加えており、列伝は丸写し箇所が多い」という観点から考えると、韋昭の呉書の段階では、孫賁の評価はサゲの方向で書かれていたということになる。それもそのはずで、孫賁には離反疑惑がある。建国の功臣ではあるが、孫策との差を浮き彫りにしたい意図は働くはず。そういう訳で「孫賁は袁術の部下(自主性がない)」というイメージで書かれている・・・と考えることができる。