【 孫賁の年齢 】
- 孫賁、字は伯陽。孫堅の兄・孫羌の子である。
- まずは孫賁の年齢から探っていこう。孫賁は正確な年齢が記載されていないのだが、ヒントになりそうな記述がない訳でもない。「孫賁は若いうちに両親を亡くし、弟の孫輔がまだ赤子だったので、孫賁自身が孫輔を養った。」とある。つまり、孫賁の父・孫羌は、孫賁が弟の養育が可能な程度に若く(少なくとも10代半ば?)、孫輔が赤子(1~2歳?)だった頃に死去したと思われる。ということは孫賁と孫輔の年齢は10~15歳ほどの差があると仮定できる。で、孫輔は孫策の江東攻略戦に部将として転戦しているので、190年代後半にはすでに成人(15歳前後。)している。ということは、孫賁はそれに+10~15歳で、190年後半には25~30歳。つまり孫賁のおおよその生年は165年~170年ではないか?と推測できる。
- やがて、孫賁は出仕して郡の督郵守長になった。時期的には、孫羌が死去した後、孫堅が反董卓連合に参加する前。孫羌は孫賁が10代半ばの頃に死去したと思われるので、180年~190年の間の事だ。184年には黄巾の乱が勃発して、孫堅は潁川黄巾賊討伐軍に参加しているので、おそらくそれ以降ではないだろうか?であるならば、この郡というのは揚州のいずれかの郡。督郵というのは郡の行政監察官の事で、それに守長がつくということは、督郵が諸県を見回る時のボディーガードのような役職ではないか?と予想できる。まー大した役職ではない。孫堅の最初の官職も仮の尉(県の警察官みたいなもん。)であり、当時の孫家の家柄の程度がうかがい知れる。それでも孫賁が郡に出仕できたというのは、孫堅の黄巾討伐での名声が大きく影響しているだろう。
- (注)督郵守長は督郵の間違えの可能性はあるらしい。ソースは著作権が切れてないアレ。確かに督郵守長なんて役職は孫賁以外該当者がいない。督郵なら一杯いる。劉備が県令時代に、面会を謝絶された事から怒り狂い、杖で200回叩きのめした相手も督郵だった。督郵というのは劉備の事例でも分かるように、郡から県に派遣され行政監察をする役目だ。ただ、劉備のように督郵を叩きのめす人間がいるなら(汗、督郵を護衛するための役職も必要かもしれん。しかも揚州では当時、賊が横行していた訳で、そう考えると督郵守長という役職があっても不思議ではないかもしれない。
- 190年に孫堅が反董卓連合への参加のため軍を北上させると、孫賁もそれに従って討伐軍に加わった。当時の孫家宗室で成人してるのは、孫賁・孫河・孫香・孫静の四人。富春に留まった孫静以外の三人はいずれも孫堅の元で討伐軍に加わったとある。孫賁が郡の役所を辞めて参加するという事は、それ自体がすでに任命権の権限を逸脱しており、孫堅の反董卓連合への参加がいかに私的なものかをうかがい知る事ができるだろう。同時期に呉景や徐琨、さらには朱治なども討伐軍に参加しており、程普・韓当ら、孫堅が下邳県の次官をやっていた頃から付いてきた武人を除けば、190年の反董卓連合参加の時期に、孫堅軍の軍容が定まったと言って良い。この軍容を見れば、孫堅軍というのは、孫・呉・徐氏ら【孫堅の血縁関係を中心とした揚州小中規模豪族の連合軍】と言って良く、それらをまとめ上げていたのは、反董卓連合への参加という大義名分と孫堅の武勇名声。そしてこの軍が強かった理由は、血縁によって築かれた強い結束力と、長沙で賊軍討伐に当たっていた軍事経験、そして孫堅の武勇名声によるものである。 ▼