【 左遷?栄転? 】
  • 孫策の江東制圧がスタートするが194年の事であるから、呉景・孫賁らの丹楊攻略が開始されたのは193年の事であり、袁術は寿春に入り淮南を占領すると、すぐさま丹楊攻略を開始したという事が分かる。当時の丹楊太守は前述した周昕であり、袁術と絶交状態にあった。当然の成り行きである。袁術としては後顧の憂いを無くすためにも、丹楊は早急に攻略する必要があった。そこで袁術は、孫賁とその外戚に当たる呉景に丹楊攻略を命じる。その際、袁術は呉景を丹楊太守とし、孫賁を丹楊都尉とした。しかし、これは不自然な配置であるのは誰の目にも明らかであろう。袁術の淮南占拠において最も重要な働きをしたのは孫賁である。ところが、孫賁は孫家の外戚に当たる呉景の下に付けられているのである。
  • 理由はいくつか考えられる。一つは統治能力の問題である。呉景は後に思いやりのある統治をして丹楊の民に慕われていた・・・という記述が見られ、郡太守として統治能力に優れていた事がうかがい知れる。つまり、郡の統治という面で孫賁より呉景が適任と袁術が判断したのではないか?という点である。二つ目は孫軍閥の解体という側面である。袁術からすれば孫軍閥を一本化する事は、孫一門の独立という非常に大きな危険性を孕んでいた。先代の孫堅の武功があまりに大きすぎたからである。よって孫堅死後は、孫軍閥の解体が袁術の主導で行われた。(孫賁伝3【 解体する孫軍閥 】参照。)呉景を孫賁の上官に据えたのも、そうした孫軍閥の一本化を防止するための措置ではなかったか?と考える事ができる。よくよく考えれば、戦功を立てたにも関わらず報われないという意味では、袁術旗下時代の孫策もまた同じであった。この辺り、袁術の孫一門に対する考え方というのは共通しているのかもしれない。しかし、一方で袁術は、孫賁の不満を考慮していたようでもある。孫賁は征虜将軍を兼任したとあるからだ。征虜将軍というのは孫皎伝1【 精鋭部隊長 】でも触れたように、結構な上位官職だ。実質的な郡の統治については呉景を上官としながらも、軍権としては孫賁の方がはるかに上官という事になる。この辺りの微妙なバランス感覚というのは、袁術はなにげにうまかったりする。そういう訳で丹楊都尉として呉景の下に付けられた事を孫賁が不満に思った様子は見られない。その後も袁術旗下の武将として転戦していく。
  • さて、呉景と孫賁の丹楊討伐を検討してみよう。孫賁伝には、孫賁は征虜将軍として山越の平定に当たった・・・とある。周昕を討伐したという記述はない。しかし、この時期に孫賁が山越を討伐するとしたら丹楊の山越討伐しか考えられず、つまり山越の討伐も丹楊攻略のための重要な布石であると言える。それは周昕は曹操の募兵に応じて合計一万以上の兵を派遣したとあるのだが、ではこの軍兵はどこから沸いて出たのか?という点である。太史慈伝6【 我に大志あり 】で書いたが、、古来から丹陽は強兵を産出する土地として定評があった。おそらく傭兵として丹楊山越兵が活躍していたのではないか?と思われる。後に太史慈が丹楊で自称丹楊太守を名乗った際も、丹楊山越を糾合した。おそらく周昕が曹操に送ったという軍兵も丹楊山越の傭兵たちではないか?と思われる。
  • そして、山越が絡んでいる以上、丹楊攻略というのは簡単ではない。孫静伝注献帝春秋によると、やはり丹楊攻略はなかなかうまく行かない。そこで呉景は民衆たちに周昕の命令に従った者は全て死刑にするとのおふれを出した。すると周昕は「私は不徳であったとしても民衆に何の罪があるか。」と言って兵士を解散させると故郷に戻った・・・とある。まあ、周昕が有徳の人物であった事を示す資料ではあるのだが、兵士を解散させたという点を見れば、やはり周昕の兵は周昕の私兵(部曲)ではなく、傭兵であったと言えるだろう。そして結局の所、丹楊攻略の糸口は、やはりそこ(傭兵が多いという点)にあった。それが孫賁の山越討伐であり、呉景のおふれである。こうした点をつかれたため、周昕は自ら退いたのだと言えるだろう。こうして呉景・孫賁の丹楊攻略は成功する。
  • このように、呉景とのコンビで周昕から丹楊を奪取する事に成功した孫賁だが、その後、劉繇の圧力が強くなり丹楊にはいられなくなった・・・と孫賁伝にある。呉景伝を見ても、呉景は劉繇の圧力が強くなってきたため北に戻った・・・とあり、劉繇伝の方は、呉景と孫賁は袁術の官位を受けて働いているという事で強制的に追い出した・・・とある。これらの記述を見ると、どうも呉景と孫賁は戦って破れたため丹楊から退却したのではなく、何らかの政治的な手法により丹楊を退却せざるを得なくさせられたように思われる。
  • 劉繇の揚州刺史赴任の経緯については、劉繇伝3【 揚州刺史赴任の謎 】を参照してほしい。要するに、劉繇は袁術の支配力が及びにくい長江南岸を支配し、曹操と結び南北から袁術を締め上げていこうという戦略をかなり初期の段階から立てていた。つまり、劉繇にとっては、呉景・孫賁を丹楊から追い出すのは必然である。一方、呉景・孫賁の立場から見れば、自分たちが曲阿に連れてきた揚州刺史が劉繇な訳で、その劉繇が自分たちを追い出しにかかるとは思っていなかっただろうと思われる。
  • 次に劉繇の記述を見ていくと、劉繇は樊能と張英を長江沿岸に置き、袁術の進出を食い止めさせる一方で、呉景と孫賁を強制的に追い出した・・・とある。つまり、劉繇はまず最初に、袁術と対峙する際のポイントとなる長江の要所を電撃的に押さえた。樊能と張英は長江での戦いで重要となる水軍の運営に長けた地元の士人であろう。後の孫策との戦いの記述を見ても、劉繇はこの段階で相当数の軍船を揃えていたようで、呉景と孫賁は長江を押さえられ、寿春との連絡を絶たれた状態になった。また樊能と張英ら地元の士人が劉繇についたという事は、土着力という意味でも呉景・孫賁らは丹楊で孤立状態にあったと言えるだろう。
  • また、袁術が身動きが取れない状態であった事も挙げられる。当時、廬江郡太守・陸康との袁術の関係が悪化し、袁術は廬江に軍を出していた。劉繇は、そのタイミングを逃さず袁術に叛旗を翻したはずで、呉景・孫賁が丹楊を死守しても、袁術は援軍をとても出せる状況ではなかった。そして呉景・孫賁らも現時点で丹楊を完全に支配していたわけではなかった。おそらく山越の勢力の強い西部六県は未統治状態だったはずで、さらには祖郎が丹楊郡において独立した勢力を持っていた。孫策は呉景が丹楊太守だった時期に丹楊で百人規模の兵を集めたが、祖郎により全滅させられている。つまり、実際には一族の孫策ですらまともに募兵ができない状況だった訳で、相当に統治に苦労していた様子が分かる。前・太守の周昕が曹操や弟の周昂にどんどん援軍を送っていたのと比べると雲泥の差である。この差がどこから出てくるか?というと結局の所、会稽の名士である周氏の財力と、名士にはほど遠い孫氏・呉氏の財力の差かもしれない。
  • まとめると、
    • 呉景・孫賁らは、劉繇が自分たちを追い出そうとしているとは気づいてなかった。
    • 長江を電撃的に押さえられたため、不利な状況に陥った。
    • 袁術は廬江に出兵中で援軍は見込めなかった。
    • 丹楊太守と言っても、完全に統治できていた訳ではなかった。
    • 丹楊の士人たちは劉繇に付き、呉景・孫賁らは丹楊で孤立していた。
  • こうした点から、呉景と孫賁は丹楊から退却せざるを得なくなったのではないだろうか?そして、戦った形跡すらない事と、その後、袁術は新たに揚州刺史を任命しているという点から、どうも劉繇は揚州刺史としての権限を用いて呉景・孫賁らを追い出したのではないか?と考える事ができる。つまり、揚州刺史として呉景・孫賁に替わる新しい丹楊太守・都尉を任命したのではないか?という事だ。 
    • (注)ところが、劉繇が指名したはずの丹陽太守・都尉の名前が見当たらないw
      一つは、劉繇は曲阿に拠点を置き、丹陽を直接支配したので、太守・都尉を任命しなかった・・・と考える方法がある。その場合は呉景・孫賁は解任されたということになる。しかし、通常は代わりの太守・都尉を任命するはずで、もし無理矢理、それが誰だったのか?を予想すると孫策の丹陽攻略時、丹陽最大の拠点である秣陵にいた薛礼が太守で、笮融が都尉と考えることもできる。