【 独立への時系列 】
  • 劉繇によって丹楊を追われた孫賁と呉景は歴陽まで戻りそこに留まったとある。横江津・当利口と長江北岸の要所を押さえられた以上、さらに北上し歴陽に軍を留めるしか方法がなかったのだろう。丹楊を奪われた袁術は当然、劉繇の離反に怒り心頭であっただろうが、廬江が片づくまでは手だしができない。よって、当面は歴陽の呉景・孫賁らに横江津・当利口の攻略を命じるが、すでに要所を奪われており軍船も整っていない以上、うまく行くはずもなかった。そして廬江が陥落すると、袁術は新たに揚州刺史に恵衢、丹楊太守に周瑜の叔父である周尚を任命、そして丹楊攻略軍には孫策を充てた。時期的には194年末~195年当初の事である。
  • 以後の孫策の丹楊攻略に関しては、孫策伝で述べたので省略。結果、丹楊は孫策によって攻略される。そして丹楊攻略が終了すると孫賁と呉景は寿春に帰還。その辺りの経緯は呉景伝3【 政略の狭間で 】を参照してほしい。時期的には195年の終わり頃で、孫賁と呉景は袁術が皇帝を僭称するまでの間、袁術旗下として働く事となる。
  • では、その一年強の間、孫賁は何をやっていたか?である。孫賁伝によると、(袁術の皇帝僭称の後、)九江太守に任じられたが、官に就くことなく妻子を捨てて江東に戻った・・・とある。注の江表伝には、当時、呉景は広陵太守、孫香は汝南太守となっており、孫賁は将軍に任命され寿春にいた・・・とある。
  • 孫策の江東制圧以前の孫賁の官位は何か?というと丹楊都尉・征虜将軍である。しかし、丹楊都尉の座は、呉景同様に劉繇によって丹楊を追われた段階で解任されていると思われる。そう推察する理由は、もし孫賁が丹楊都尉のままであるなら、丹楊攻略が終了した時点で孫賁が赴くべき所は丹楊という事になるからだ。実際、周瑜は丹楊攻略終了後、丹楊太守の叔父・周尚の元に赴いている。ところが、孫賁は寿春に戻ったのであるから、当時すでに孫賁は丹楊都尉ではない。征虜将軍として寿春に戻ったのだ。
  • であるから、江表伝にある【当時、孫賁は将軍に任命されており・・・】というのは、征虜将軍に任命されていたという事を指していると思われる。では、九江太守というのはどうなのだろうか?袁術はこれより前、孫策を九江太守にすると約束しながら、実際には丹楊出身の陳紀を九江太守に任命したという事があった。孫策が江東制圧を開始する前の194年の事だ。また、袁術伝を見ると、袁術は皇帝を僭称した際、九江太守を淮南尹(首都の長官)に任命したとある。この場合、淮南尹に任命された人物の可能性は二つある。陳紀と孫賁だ。前述のように194年段階で九江太守は陳紀であり、その後どうなったという記述はない。つまり九江太守であった陳紀が淮南尹に格上げされ、空席となった九江太守の座を孫賁に任せようとしたと考えるのが一つ。もう一つは陳紀は左遷されたか、あるいは死去したかしており、九江太守兼淮南尹として孫賁が選ばれた・・・というものだ。冷静に考えればおそらく前者であろう。陳紀は子飼いだからこそ九江太守に任命されたのであり、その陳紀を左遷してまで孫賁を九江太守にする理由は薄い。また死去したとしたら袁術の皇帝僭称のタイミングとバッチリであり、ちょっと偶然が過ぎる。どちらしても孫賁は袁術の皇帝僭称までの間、征虜将軍として寿春に駐屯していた。
  • 続いて196年。196年に袁術・孫策間で起きた事件と言えば、丹楊太守交代劇であろう。袁術は周瑜の叔父である周尚に代えて袁胤を太守として送り込んできた。周瑜伝5【 丹楊太守交代劇の真相 】で述べたように、おそらく孫策が会稽遠征をしていて丹楊にいなかった時期にそれは行われている。そして、孫策は遠征中という事もあり、袁胤を丹楊太守としてそのまま受け入れた。だからこそ、周瑜は袁術の指名に従い、叔父と共に淮南に戻った。そして袁術が皇帝を僭称する197年春の段階では周瑜はまだ淮南にいて、江東に脱出するのは198年の事と周瑜伝にある。おそらく呉景・孫賁も同様だろう。だが、そうだとすると、周瑜・呉景・孫賁らは袁術が皇帝を僭称してから一年近く、淮南に留まっていた計算になる。この辺り、私の思っていたイメージとは多少異なるようだ。もう少し詳しく検討してみる。
  • 孫策伝注江表伝によると、197年夏に曹操は孫策に王誧を使わし袁術包囲網を作ろうとしている。それに返答し孫策は袁術への決別を表明するのだが、であるなら、孫策から離れている周瑜・呉景・孫賁らから見れば、197年夏の段階でまだ、孫策の意図は読めない。手紙の遣り取りだけで、具体的行動がないからだ。では、この時期に行われた孫策の具体的行動とは何か?と言えば、それが丹楊太守・袁胤の追放ではないだろうか?
  • 孫策が会稽遠征を終えたのが196年後半の事だろうと思われる。そして孫策が丹楊に帰還したのは196年末期~197年初頭。その時点で丹楊太守は袁胤だった。そして197年春、袁術が皇帝を僭称する。それを受けて、曹操と孫策の関係が改善され、孫策は袁術からの独立を決意。丹楊太守・袁胤を追放し徐琨を丹楊太守とする。それが197年夏頃。それを見て、周瑜・呉景・孫賁らは、袁術を見限り江東に脱出する機会を探る。周瑜が魯粛と出会ったのはそんな時期である。(魯粛伝3【 周瑜と魯粛 】参照。)そうこうしているうちに、197年9月、袁術は陳国に侵攻、そして曹操にコテンパンにやられる。袁術の実質的な衰退は、実はここから始まる。勢力としてのパワーが衰退したため、周瑜・呉景・孫賁らが江東に脱出する隙が生まれ、197年末~198年初頭にかけて次々と彼らは江東に逃れてくる。だが、孫賁だけは少し事情が異なった。なにしろ彼は将軍として首都・寿春にいた。そこで孫賁は妻子を棄てての脱出を余儀なくされる。無論、寿春に置いてきた妻子の運命は推して知るべし・・・である。
  • 袁術も彼らの離反を指を加えて見ていただけではない。祖郎ら丹楊の賊に印綬を与え、一斉に反乱を起こさせようとした。その頃、丹楊では太史慈も反乱を起こしている。太史慈は涇県の勇里、祖郎は陵陽で捕らえられているので別勢力ではあるが、丹楊西部七県が未統治であった事が如実に伺える。普通に時系列を追っていくと197年中に、孫策は太史慈・祖郎の討伐を開始していると考えるのが自然だが、一つ疑問点がある。祖郎討伐の際、孫賁の弟である孫輔が歴陽に軍をおいて袁術の侵攻に備えているのである。これはどういう事か?というと、祖郎討伐を行った頃には孫輔はすでに袁術陣営ではなく孫策陣営にいるという事になる。孫策伝16【 蜂起 】で書いたことは無視してほしい(爆。冷静に見て孫輔は孫賁と共に行動していたと見るべきで、つまり遅くとも祖郎討伐が行われた頃には孫賁・孫輔・呉景らは江東に戻ってきているという事である。また周瑜伝では周瑜は江東に脱出すると牛渚に駐屯したとあり、これはどうも孫輔が歴陽に駐屯したのと同様の袁術の反攻に備えた行動のように思える。牛渚は長江南岸の要所だからだ。だとすれば、周瑜が牛渚に駐屯したのも祖郎ら丹楊七県討伐を行った時の軍事行動であると思える。となると、丹楊七県討伐は198年に入ってから起こったと考えた方がよいのかもしれない。そう考えれば、孫輔が長江北岸の歴陽に出張った理由も分かる。袁術はすでに陳国で大敗しており、勢力的に衰退していて、歴陽まで押さえる事が可能だったのだ。
  • 時系列をまとめてみる。
    • 孫策、丹楊に帰還する(おそらく196年末期~197年初頭。)
    • 袁術の皇帝僭称(197年春)
    • 曹操が王誧を使わし、袁術包囲網を画策(197年夏)
    • 丹楊太守・袁胤の排除(197年夏終わり頃)
    • 袁術、陳国に侵攻。大敗を喫す(197年9月~10月)
    • 袁術の支援により祖郎ら丹楊賊の動きが活発になる(197年後半)
    • 孫策、太史慈を討伐する(197年後半)
    • 呉景・孫賁・周瑜らが江東に脱出する(197年末~198年当初)
    • 孫策、祖郎討伐を行う。孫輔を歴陽に周瑜を牛渚に駐屯させる(198年初め)
    という流れではないか?と思われる。以前、孫策伝で書いた事とはまるで異なる(汗。だが、この方が自然である気がする。