【 孫賁の死亡時期 】
  • 孫策死後、孫賁が軍属として兵を率いたという記録はない。それどころか孫権を見限り曹操に近づこうとするかのような動きを見せることになる。その遠因となっているのは、曹家との縁談である。時期が特定できないのだが孫策在命中に(孫策伝の順番で言うと、黄祖討伐の後)、孫賁の娘が曹彰に嫁いでいるのである。 この縁談によって孫賁は曹操と親戚になった。曹操と孫権の関係が良好な時は別に問題はないのだが、曹操とと孫権との関係に緊張が生じると、問題が発生した。何が起きたのか?と言うと、曹操による孫賁・孫輔の切り崩しが起きたのである。孫輔については孫輔伝で述べる。ここでは孫賁について述べたい。
  • 208年に朝廷(曹操)から使者が遣わされ、孫賁は征虜将軍に任じられた。めでたい事のように思えるかもしれないが、征虜将軍というのは雑号将軍ではあるものの、当時の孫権の肩書きである討虜将軍より格式は上位に当たる。つまり主人である孫権より上位の官位を孫賁に与えたのだ。これは明らかに孫家の内部分裂を期待しての任命であり、効果的な策謀と言える。 その結果、孫賁は曹操に人質を差しだそうとした。この事件については朱治伝に詳細が書かれている。簡単に言うと、孫賁が異心を抱いているという噂を聞いた朱治は、孫賁の元を訪れて「曹操は長江を越えて我が国と争う事はできない。」と情勢を説明し、人質を送るのを取りやめさせた。また朱治の説得の言葉が朱治伝注江表伝にあるが、それによると劉備が孫権に救援を求めてきているとあり、時期的には柴桑会議の後、おそらく曹操が烏林に陣を敷いた頃だろうと思われる。また「噂」が流れたということは、なんらかの形で孫賁が異心を抱くだろうと思われる出来事があったと言うことであり、だとすれば孫賁が征虜将軍に任じられたのは、曹操が烏林に陣を敷いて戦線が膠着した時期かもしれない。確かに疫病で身動きが取れない曹操としては、孫権陣営の内部分裂を画策するのが上策である。
  • さて朱治の説得により事なき?を得た孫賁はその後、官職にあること11年で死去したとある。直前に書かれている官職が征虜将軍であるので、任命された208年から数えて11年目である218年に孫賁は死去したと、筑摩訳をそのまま読めば解釈できる。 だが実はそう解釈してしまうと奇妙な事が起きる。実は呉には孫賁の後、もう一人征虜将軍になった人物がいる。孫静の次男・孫皎である。(孫皎伝1【 精鋭部隊長 】参照。)時系列を整理すると、孫皎が征虜将軍に任じられたのは210年頃ではないかと思われる。という事はである。孫賁は210年頃には死去していないとおかしい。同じ官位を持った人間が二人存在してしまう事になる。あるいは孫賁の征虜将軍の任命自体が反故にされたかだが、それは可能性として低いだろう。そもそも210年頃の将軍職の任命は、朝廷の許可を得た物とは到底思えず、孫権が勝手に任命した物であると考えられるからだ。だとするならば前任者である孫賁が死去したので後任に孫皎を選んだと解釈するのが自然である。
  • 孫賁の死亡時期を特定できる記述はもう一つある。呂蒙伝によると、蔡遺という人物が呂蒙に推薦されて、前の豫章太守であった顧邵の死後、豫章太守となった、とある。だとすれば呂蒙が死去する219年以前に、豫章太守であった顧邵が死んで、蔡遺が豫章太守になったと言うことになる。つまり豫章太守は
    • 孫賁→孫鄰→顧邵→蔡遺
    という流れが219年までに起きているという事になる。しかも顧邵伝によると、顧邵は豫章太守となって5年で死去したとあるので、少なくとも顧邵が豫章太守に就任したのは215年以前と言うことになる。という事は孫賁が218年まで生きていたのでは計算が合わなくなるので、孫賁伝にある【官職にある事11年で死去した】という官職とは征虜将軍の事を指しているのではない。原文で言うと【領郡如故】の部分、筑摩訳で言う所の【豫章太守の職務は以前の通りに・・】の部分から【在官11年】と言っているのだ。つまり官職にある事11年の指す官職とは豫章太守の事と想定できる。だとすれば豫章太守に任命されたのは200年であるから在官11年目に当たる210年に孫賁は死去したという計算になる。そして孫賁が死去したので征虜将軍の官位を孫皎が譲り受けた。こう考えると、二つの記述が綺麗につながる事になる。また孫皎が征虜将軍となったのが210年だとすれば、程普の死亡時期まで特定できる事になるのだが、それはまた程普伝で。うーん、いつになるだろうw
  • さて、あまりにも孫権期になってからの孫賁の業績が書かれてないので、200年以降210年までの豫章郡の出来事を拾ってみた。するとやはりというか反乱が数多く起きている。203年には豫章郡の情勢が不安定になった事から黄祖討伐を中止(口実っぽいが)しているし、205年に賀斉が討伐したという上饒県もおそらく豫章郡だろう。また207年に新設された新都郡も豫章郡から分割された郡だし、孫賁が死去した210年には翻陽郡が新設されている。こうした郡の新設は、反乱勢力が多い上に広大な豫章郡の統治に苦戦していたという証明であり、という事は郡太守としての孫賁の技量にもやはり?マークが付いてしまう。失敗したという訳ではないだろうが、少なくとも上手に統治したとは言えないだろう。まっ華歆ですら豫章郡を統治するのは至難だったのだ。孫賁が統治しきれなかったとしても仕方のない話とも言える。
  • 孫賁を評するに、私としては「軍人としては優れている」としか評価しようがない。孫策が多用したのだから軍事能力は十分評価して良いだろう。しかし、それ以外の所は評するのが難しい。あまり人間性が表に出てこないのだ。淡々とその時々の上官の命令を遂行している印象が強い。もし孫賁の人間観をかいま見るとするなら、赤壁の時期に曹操に人質を出そうとするあたりから、性根の座ってない人物だと解釈できない事はない。だが、これはむしろ、曹彰の嫁となった娘の安否を心配しての事と読めなくもない。朱治も「娘一人のために進退を誤るな。」と言っている。孫賁は袁術の元から江東に逃れてきた際に妻子を捨てて来ているのだ。断腸の思いは必ずあったはず。そして赤壁の時も娘が犠牲になる可能性も頭をよぎったとすれば、判断に迷う事もあるだろう。よってこの事件一つだけで孫賁の人格は判断できない。判断できるのは軍人としては優れていたと言うこと。そして軍事以外の面は向いていなかったのだろうという事である。
     -孫賁伝 了-