【 劉勲討伐戦再考察 】
- 周瑜・孫賁・呉景らが江東に脱出して来た後、周瑜は春穀県の長、呉景は丹楊太守となる。ここでもやはり孫賁は郡・県の統治は任されない。袁術の孫賁起用法を見ても、孫策の起用法を見ても、孫賁は純粋に軍人であり、統治は向いてなかったのではないだろうか?
- さて、時系列を追う。198年は、反乱勢力討伐の年だった。丹楊の祖郎、会稽の厳白虎を敗走させたのがこの年と思われる。この祖郎・厳白虎討伐に孫賁が参加したという記述はない。ただし、祖郎討伐には弟の孫輔が奮戦している。孫賁・孫輔の兄弟は宗室として軍を率いる事ができる貴重な人材であった。
- 199年は豫章・廬陵制圧の年だった。6月に袁術が憤死すると、廬江の劉勲がその残存兵力を得る。そして孫策は劉勲を計略に乗せ大敗させる。戦いの詳しい経緯は孫策伝20【 西塞山の戦い 】を参照。この時、孫賁・孫輔は、豫章から戻ってくる劉勲を彭沢で待ち伏せしていたのだが、孫策伝注江表伝によると、その人数は八千人。孫策は二万人を率いて徒歩で皖城に急行したとある。また彭沢は劉繇が豫章に逃げた際に滞在した場所である。なぜ劉繇が彭沢に滞在したかというと、郡都の南昌には正式な豫章郡太守・朱晧がいたからであり、つまり彭沢は長江を遡って豫章郡に入る時の揚陸地点であるという事である。おそらく劉勲も劉繇同様に長江を遡り、彭沢で揚陸し海昏に向かった物と思われる。つまり、彭沢は廬江に戻るには必ず通る場所であり、船に乗り換えるために行軍を一時中断する場所でもあった。という事は船に乗り換える劉勲軍を急襲するための待ち伏せであり、そして孫策たちが徒歩で皖城に急行したという事は、騎馬隊は全て孫賁・孫輔に預けたという事である。つまり劉勲軍が船の乗ろうとする所を一気に騎馬隊で急襲するというのが彭沢待ち伏せのプランだ。
- 皖城に向かった孫策の方に目を向けてみよう。孫策の率いた二万の兵は軽装だったという事は、孫策はスピードを重視して、皖城の守備体制が整う前にこれも急襲している。いつもながらの見事な孫策の電撃急襲作戦だと言えるだろう。そして皖城では、二喬を手に入れたとか、袁術・劉勲の妻子を手に入れたとか、袁術配下の工芸者や楽隊三万人を手に入れたとか、どうも話がのんびりしていて激戦があったとは思いがたい。雰囲気的には主人が留守の状況で突然急襲されたので、戦わず降伏したという感じがある。というのも、皖城が落ちた後、廬江太守に任命された李術は汝南の人とあり、当時、孫策旗下で汝南出身というのはあまりいない。それまでの孫家旗下の人物を見ても李姓は皆無で、どうもこの時、皖城の留守を預かっていたのが李術だったのではないか?という気がする。
- 彭沢で急襲を受けた劉勲のその後の足取りを追っていこう。孫策伝注江表伝によると、劉勲は逃げて楚江(長江)に入り尋陽から置馬亭(場所不明)まで徒歩で遡る。だが城がすでに落ちたという知らせが入ったため皖城入りを諦め、江夏郡の西塞山中に身を潜めたが孫策は西塞山まで軍を進めて劉勲を大いに打ち破った・・・とある。これを読むと、西塞山で戦いがあったと読める。だが、周瑜伝・程普伝・董襲伝を読むと、全て尋陽で劉勲を破った・・・とある。という事は、西塞山の戦いに至るまでにすでに尋陽で大規模な戦端が開かれていたと見るべきか?という事はである。彭沢で急襲を受けた劉勲は、大きなダメージを食らいながらも、ある程度の軍容は保ったまま長江を渡り尋陽に揚陸したという事だ。劉勲が豫章に連れて行った軍は相当な大軍だったのである。当時の劉勲は多数の兵を引き連れていたという記述が何カ所か見られる上に、皖城は戦わず降伏したとしか思えないのであるから、ほとんど全軍を引き連れて行ったのだ。劉曄が危惧するのも道理である。
- 尋陽での戦いについては、皖城や彭沢の戦いとは違い、正面衝突に近かったと思われるが、すでに急襲を受け根城が落ちた後であり、すでに軍としての勢いが違っていたと思われる。しかも孫策は、皖城には三千人しか残していないので、これまたほぼ全軍が尋陽に集結した。そしてこの尋陽でも破れた劉勲はついに廬江郡を諦め、荊州・江夏郡の西塞山中に身を潜め、砦を築くと共に黄祖に救援を求めた。そして黄祖は黄射に水軍五千を率いさせて劉勲の救援に向かわせる。 ▲▼