【 黄祖討伐は失敗だった? 】
- 彭沢で孫賁・孫輔の奇襲を受けた劉勲は、長江を渡って尋陽に揚陸し、そこから皖城奪回を画策した。だがすでに城は落城し、孫策軍は尋陽にて劉勲軍を撃破、劉勲は廬江郡奪回を諦め、荊州・江夏郡の西塞山に砦を築いた。江夏郡に入ったという事は劉表の保護を求めての事と解釈できる。
- この時、劉表の判断はどうだったのだろうか?劉勲は廬江を失い荊州に逃亡してきたとは言え、元々は宿敵・袁術の故吏(子飼いの将)である。本来的には受け入れる相手ではない。だが、この時は状況が少し変わっていた。孫策伝注呉録の孫策の上奏文を読むと、【臣(私)は、江夏太守の周瑜、桂陽太守の呂範、零陵太守の程普・・・・らを指揮し黄祖を討伐した。】とある。周瑜伝を見ると、【孫策は荊州の奪取を企て、周瑜を江夏太守に任命し、周瑜は孫策と共に皖城を攻めた。】とある。つまり、皖城攻撃が始まる以前から周瑜は江夏太守に任命されていたのだ。程普伝を読むと、祖郎討伐と皖城攻撃の間に零陵太守に任命された事が分かる。呂範伝を読むと桂陽太守の事は書かれてないが、征虜中郎将に任じられた事が書かれている。時期的には程普と同様だ。前回述べたタイムテーブルで考えると、祖郎討伐は198年の初め頃で、皖城攻撃が行われたのは199年後半であるから、彼らが荊州の諸郡太守に任命されたのは198年の初頭~199年後半までの期間という事になる。
- では、その期間に何があったのか?は一目瞭然だ。曹操との関係が修復され、197年に孫策は騎都尉・鳥程侯・会稽太守に任じられ、198年には討逆将軍・呉侯となっていたのである。袁術に任命された将軍職を棄て、討逆将軍となったので、周瑜・程普・呂範を新たな中郎将に任じた。そして上奏文に堂々と載っているということは、同時に周瑜・程普・呂範らを荊州各郡の太守の座にも就けたのである。これは明らかに荊州を併呑するという孫策の決意表明であり、曹操もそれを認めたという形になる。曹操が官渡で動けないのを良いことに、ちゃっかりと部下を荊州各郡の太守にしたのだ。劉表にして見れば、死んでしまった袁術などより孫策の方が問題であり、そうした事から劉勲を受け入れ援軍を送ったと思われる。しかし、江夏太守・零陵太守・桂陽太守を指名しながら、なぜ孫策は長沙太守だけを指名しなかったのだろうか?
- 孫策に目を向けよう。よく考えてみると、西塞山の戦いから続く一連の対黄祖戦は不思議な点が一杯ある。まず前述したように、孫策は周瑜・呂範・程普らを荊州各郡の太守に任命し、その法的裏付けも取っている。つまり荊州併呑の意図は本気だ。決して劉表に対する牽制などではない。以前と言っている事が違う?(汗)忘れてちょーだい(爆)。孫権なら兎も角、孫策はそんな変化球は投げてこない。任命し裏付けを取ったからには併呑する気だ。孫策伝注江表伝を読んでも、そもそも孫策は黄祖を討伐するための軍を起こしていたと書いてある。つまり廬江攻撃はあくまでも黄祖討伐の前振りである。廬江に劉勲がいたのでは安心して荊州に進めないから廬江を攻撃したのだ。あくまでもねらいは荊州であり江夏郡である。だから廬江には李術をそのまま太守として残した。廬江を併呑する事にねらいがあるなら、孫策は自らの息のかかった人物を太守にするはずだ。通過地点の豫章郡の支配をぶっ飛ばしたのも孫策らしいと言える。長江に沿ってまずは支配権を広げてしまい、支配権を確保してからその中身を押さえていく。丹楊・呉・会稽を支配した時のやり方と同じである。
- そして西塞山で劉勲を敗走させ夏口に攻め上り、沙羨県で黄祖を打ち破った。怒濤の快進撃である。そのまま江夏郡を支配し、さらに長江南岸の荊州各郡を支配するつもりだったはずだ。そう考えてると、なぜ長沙郡を指名しなかったのか?も理屈が通る。当時、長沙太守の張羨が劉表に叛旗を翻していたからだ。桓階伝を読むと、曹操と袁紹が官渡で対峙していた頃に張羨は反乱を起こしている。時期的には丁度この頃である。長沙が離反した事により、桂陽・零陵・武陵も離反状態となっていた。そんな好機を孫策が見逃すはずがない。だからこそ、孫策は荊州に侵攻したのだ。張羨と共同戦線を張り、荊州南部を支配する気だったのである。むしろ桓階が張羨に反乱を勧めた理由は、孫策の援軍が期待できるからであろう。でなければ官渡で身動きが取れない曹操の援軍を期待して反乱を起こすというのは理にかなっていない。
- つまり、孫策が江夏郡に侵入したのは遠大な計画の一端なのである。ところが、実際には黄祖を破りながらも、江夏郡を支配権に加える事なく退却し、豫章郡の攻略を行った。豫章郡攻略が当初の計画になかった事は、黄祖討伐に参加した太史慈を急遽、豫章郡の偵察に向かわせた事からも分かる。(周瑜伝8【 豫章制圧 】参照。)もし豫章郡を初めから攻略する気だったら、太史慈をもっと早い段階で豫章に行かせたはずだ。ということは、どこかで計画が狂ったのである。
- 先入観を棄てて、冷静に見てみよう。江夏郡に侵入したのだから併呑する気だったはずだ。そして併呑するなら夏口城を攻めるはずである。実際、孫策伝には夏口まで攻め上ったとある。ところが、孫策伝に出てくる黄祖との決戦の場は沙羨県だ。沙羨は夏口より長江上流であり、そこに黄祖が陣を張ったというのは腑に落ちない。夏口城で決戦となるのが筋である。しかも夏口城が落ちたとはどこにも出てこないのであるから、この時、夏口城は落ちてない。夏口城が落ちてないのにそれより上流の沙羨で決戦をする必要は黄祖には全くないのだ。そんな事をしたら空の夏口城が孫策に奪われてしまう。
- つまり、呉録に出てくる孫策の上奏文には嘘があるのだ。これは孫策が自らの功績をアピールするために作った物である以上、あまり信用はできない。黄祖は沙羨で決戦はしていない。する必要がない。夏口城にいたはずだ。だからこそ、沙羨で大敗したにも関わらず黄祖は死んでもいないし捕まってもいない。では沙羨では孫策は誰と戦ったのか?
- 今一度、孫策の黄祖討伐の経緯を見てみよう。
- 彭沢での戦いに敗れた劉勲が江夏郡に亡命。西塞山に陣取る。
- 西塞山に陣取った劉勲は、劉表に保護を要請すると共に黄祖に援軍を要請する。
- 黄祖、黄射に水軍五千を指揮させて援軍に向かわせる。
- 孫策、西塞山の劉勲を敗走させる。劉勲は曹操の元に逃亡。
- 黄射の援軍は間に合わず、夏口城に退却する。
- 孫策、劉勲の兵二千と軍船千艘を手に入れ、そのまま夏口城に進撃する。
- ここまではほぼ間違えない。4で江夏郡に入ったはずの劉勲がなぜか北に向かった事から黄射の水軍は劉勲軍に合流できていない事が分かる。もし合流していたなら共に江夏に逃げたはずだ。つまり劉勲は援軍が来る前に急襲され、黄祖の援軍が来ているのかどうかも分からないままだったのだ。だから北に逃げたのである。そして孫策は軍の勢いを留めることなく、そのまま夏口城に急行した。だがその頃、孫策が江夏郡に侵入したという知らせは劉表の元にも届き、劉表は劉虎と韓晞に長矛隊五千を指揮させて援軍に向かわせている。問題はその長矛隊五千が江夏郡に到着した時点で孫策はどこにいたのか?だ。
- 西塞山の戦いを見ると、孫策は、夏口から出陣した黄射の水軍が間に合わないほどの速さで急襲している。だから黄射は慌てて引き返した。おそらく孫策は退却する黄射の軍を追いかける形で夏口に急行した。できれば黄祖が孫策はまだ西塞山にいると思っている状態で、夏口に急襲をかけたかったはずだ。だが、ここで一つ誤算が生じた。黄射がうまいタイミングで退却したため、孫策が夏口に向かってきている事を黄祖は知ってしまったのだ。で黄祖はどうしたのか?前述したように夏口城に閉じこもったのである。この判断は極めて現実的な判断だったと言えるだろう。前述したように当時、長沙郡で張羨が反乱を起こしており、荊州南部は不安定な状況にあった。そこに孫策が劉勲を撃破して江夏郡に侵入した。もしこの状況で江夏が落ちれば、それはすなわち荊州南部の支配権の崩壊を意味している。黄祖は何が何でも江夏郡を死守する必要があったのだ。
- 孫策の視点で見てみよう。電撃作戦・各個撃破の天才である孫策だが、そんな孫策でもどうにもならないケースがあった。堅固な要害に立てこもり、どんな挑発をしても亀のように出てこない相手である。丹楊攻略戦の笮融がそうだ。野戦で孫策に勝てる気がしない笮融は孫策がどんな動きを見せても一切動かず要害に立て籠もった。そういう相手はやっかいなのだ。だから孫策は城攻めをする際には、極力、相手の虚をついた。相手の防御態勢が整わない状態で攻撃をかけていたのだ。ところが、夏口城に関してはそれが不可能となった。すでに黄射が逃げ帰った以上、黄祖は完全な防御態勢を整えて籠城に入っていた。そういう場合、力攻めは無謀だ。であるから、孫策は夏口城を包囲した状態で待機していた。それは江夏攻略に参加した孫権や程普の伝にも、夏口で戦ったという記述がなく、沙羨で戦ったと記述されている事からも推測できる。夏口では孫策は戦わなかった。ただ包囲していたのだ。
- おそらく、劉虎と韓晞の長矛隊五千はそういう状態で江夏郡に入った。すでに夏口城が包囲されている以上、夏口城に入って黄祖と合流する事はできず、しかるべき場所に陣営を築いた。その劉虎と韓晞が砦を築いた場所こそ沙羨であろう。孫策はこの劉虎と韓晞の部隊と戦ったのだ。呉録の孫策の上奏文が注として入っているために沙羨で孫策と黄祖が決戦をしたようなイメージが付くが、江表伝注には【孫策は劉虎と韓晞の長矛隊五千と戦いこれを打ち破った。】とあるだけである。
- 夏口城に黄祖、沙羨に劉虎と韓晞という状態であるなら、孫策なら間違えなく沙羨を叩く。夏口城を落とす事にこだわれば被害が甚大なだけでなく、攻城戦中に後方から挟撃を受ける可能性もある。逆に沙羨を攻めるなら、これは各個撃破の天才たる孫策の天賦を大いに活かすことができる。沙羨に向かい包囲を解く事で、黄祖が後ろから追撃してくるなら、急転して黄祖を攻撃すれば良いのだ。また黄祖が夏口城から一切出てこないなら、劉虎と韓晞は沙羨で孤立する事となり、各個撃破は比較的容易である。そして沙羨での戦いの結果は、江表伝注では【孫策はこれを多いに打ち破った。】とあるだけだ。呉録の孫策の上奏文によると【黄祖の妻や息子七人を捕虜とし、劉虎と韓晞を討ち取り、船六千隻と山のような財宝を手に入れた。】である。
- ポイントは呉録の孫策の上奏文をどこまで信用するか?だろう。12月8日に沙羨で戦いがあった事と、戦いに勝った事は本当だろうが、戦果については疑問が残る。もし黄祖の妻や息子まで捕虜としたのなら、黄祖は沙羨の戦いに参戦している上に大敗している。夏口城が落ちない方がおかしい。しかし実際には孫策は夏口を落とすことなく引き返している。劉虎と韓晞はその後、記述が出てこないので討ち取られた可能性はある。どちらにしてもだ。呉録の孫策の上奏文にあるような決定的な大勝なら江夏郡は孫策の物になっていたはずなのだ。しかし、それがなってないのだから、沙羨の戦いは孫策の勝ちに違いない物の、それは決定的な勝利ではなかったのだ。そして夏口が落ちないとしたらそれは黄祖は沙羨にはノコノコと出てこなかったという事ではないか?
- この黄祖討伐の時のもう一つの動きとして、太史慈伝に出てくる麻・保の砦の攻略がある。太史慈は孫策に従い麻・保の砦を攻略した際、見事な矢の腕前を見せたという逸話だ。麻・保については、いくつかの伝で話が出てくる。周瑜伝には206年に麻屯と保屯の砦を討伐したという記事が出てくる。凌統伝にもおそらく206年の麻屯・保屯の砦の討伐の事であろうと思われる記述が出てくる。つまり、江夏郡に侵出したが、結局支配できなかった時には必ずと言って良いほど麻・保を叩いている。
- 麻・保の砦については凌統伝に山越の不服従民の討伐の際に攻撃した・・・と書かれている。孫権伝にも、【黄祖を攻め、その配下の民衆を連れ帰った】とある。であるとしたら、麻・保に陣取っていたのは山越の不服従民だ。この不服従民が黄祖と共同戦線を張っていたとは思いがたく、おそらく黄祖討伐とはなんの関係もない。ここを攻略する価値はただ一つ。山越を討伐し捕虜を得る事により、人員・兵員を補強できるという事だ。つまりここを討伐する時は、すでに江夏郡の攻略を諦めた時である。
- であるとしたら、孫策が麻・保の砦を攻略したという事は、すでに兵員の補強に走っており、江夏郡を落とすための行為とは言い難い。しかも麻・保は沙羨より上流という事は、麻保の砦の攻略は沙羨の戦いに勝った後だ。つまり沙羨で大勝した後に、夏口城を攻めず、さらに上流に向かい山越を討伐しているのである。夏口より遙か上流を孫策が討伐しているのに夏口が落ちないという理由はただ一つだ。黄祖が立て籠もって出て来なかったのである。おそらく206年の周瑜と孫瑜の黄祖討伐の時も同様の事が起きている。▲▼
- (注)注というか泣き言w?
自分的には、呉書見聞のテキストの中でも三本の指に入る秀逸なテキストだと思っているのだけど、ほとんど反響がないwマニアックすぎるのかなぁ?
無敗の孫策のほぼ唯一と言って良い「戦略的負け」であり、孫策は「長江流域を制圧する」という、魯粛の基本方針と同じ考えを持っていた、さらには東から孫策、南から張羨という劉表絶体絶命のピンチを、【またしても】黄祖が救ったという・・・世間一般の認識に異論を唱えているテキストなんですよw
結局、「孫呉は方針が二転三転した」という認識は誤解で、孫策期から荊州完全制圧が実現するまで、孫呉の目標は「長江流域制圧」の一点にあり、一度も方針がぶれたことはない。「長江流域制圧」のために蜀と結んだ方が良い時は蜀と結び、魏と結んだ方が良い時は魏と結んでいる。「対魏」か「対蜀」か、という表面的な捉え方では、孫呉の国家としての基本方針は見えてこないのである。
- (注)注というか泣き言w?