【 陰陵の戦い 】
- 曹操に敗れた袁術が、寿春に入り淮南に拠点を置いたのは193年の初期の事である。当時の状況を整理しておく。まず当時の揚州刺史であるが、魏書袁術伝の本文では陳温である。陳温と言えば、丹楊太守・周昕と共に、曹操の募兵に応じた人物であり、派閥的に言うと袁紹・曹操派。袁術が淮南に拠点を置くならば必ず対立する人物であり、本文で【袁術が陳温を殺した】とあるのもうなずける。だが、袁術伝注英雄記によると、陳温は袁術が寿春に入る以前に病死しており、それをうけて袁紹が袁遺を、袁術が陳瑀を揚州刺史に任命している。陳瑀は陳登の従兄弟で、後に呉郡太守を名乗ったが孫策と争い敗れ去った人物。袁遺は元の山陽太守で反董卓連合結成時に挙兵した諸侯の一人で、揚州刺史に任命されたが袁術に敗れたと、曹操伝注英雄記にある。
- で。193年初期の袁術の淮南移転時に実際に揚州刺史だったのは誰か?である。陳温としているのは魏書、及び後漢書などであるが、呂範伝注九州春秋や許靖伝では陳褘(別名か?)と表記され、いずれも病死とある。という訳で陳温(陳褘)は病死としている書が比較的多い事と、病死したからこそ袁紹や袁術が揚州刺史を送り込める訳であるから、ここでは陳温はすでに病死しており、それを受けて袁紹と袁術がそれぞれ揚州刺史を送り込んだが、袁術の指名した陳瑀が勝利。当時揚州刺史だったのは陳瑀と考える。
- ところがである。その陳瑀が寿春にやってきた袁術の入城を拒んだ。袁術に指名された刺史がだ。理由は正直言ってさっぱりだ。陳瑀は後に呉郡太守を自称する訳だが、その理由も正直なんだかよく分からない。(孫策伝18【 潜在的脅威 】参照。)よくは分からないが兎に角、当初は袁術派であった陳瑀は、袁術が寿春に来た時点ですでに袁術派ではなかった。取りあえず孫賁の話に戻る。寿春入りを拒否された袁術は、いったん退却して陰陵を守り、改めて軍を集めて陳瑀を攻撃した・・・と袁術伝注英雄記にある。一方、孫賁伝によると、孫賁は袁紹の指名した九江太守・周昂を陰陵で破った・・・とある。別の資料を見てみると、孫堅伝注会稽典録に周喁(周昂の兄)は、周昂が袁術の攻撃を受けたので救援に向かったが破れた・・・とある。曹操伝・袁術伝を見ると、(曹操に敗れた)袁術は残った軍勢を連れて九江に逃亡し、それから揚州刺史の陳温を殺害したとある。
- つまり、淮南に逃れてきたのは良い物の、実際には寿春も九江郡も袁紹・曹操派になっていたので、袁術は戦って土地を手にするしか方法が無くなっていた訳だ。淮南一帯に多大な影響を持つ袁術といえども、曹操に大敗して逃げてきた訳で、実際には相当に追い込まれた状況であったのが分かる。で、袁術は取りあえず寿春に入るのは一端諦め、九江太守・周昂のいる陰陵を攻略する事にした。その主力となったのが孫賁。実はこれには訳がある。孫堅存命中に孫堅と周昂・周喁の間で戦闘があった。つまり、孫賁はすでに一度、周昂と戦った経験があったのだ。
- ここで周昕・周昂・周喁の三兄弟についてまとめておく。周家は会稽の名士で、一貫して曹操・袁紹派閥の一族である。当時、周昕は丹楊太守。周昕は曹操に合計一万人以上の兵を送っており、揚州における親・曹操派の筆頭だった。周昂は袁紹によって九江太守に任じられている。周喁は孫堅存命中に袁紹に豫州刺史に任じられたが、孫堅に敗れている。当時は故郷の会稽に戻っていたか、兄・周昕のいる丹楊にいたかどちらかだろう。孫堅伝注会稽典録の記述から考えれば、当時は丹楊にいたと考えた方が良さそうだ。揚州刺史となった陳瑀が袁術の入城を拒むのもこう見ると分からなくもない。袁術派を貫くと周家と争う事になり、そうなれば丹楊の周昕、九江の周昂と同時に戦わなくてはならない。つまり、情勢を見て陳瑀は袁術に従うより、周家と事を構えない方が揚州刺史として生き残る可能性が高いと踏んだわけだ。こうした状況で袁術は寿春入城を拒否され、陰陵攻略に着手。孫賁がその主力となった。
- おそらく、孫賁が陰陵に攻め込むと、周昂は窮地に陥った。周昂は孫堅との闘いにも敗れており、さほど戦上手という訳ではなかったようだ。そして、兄の窮地を救うため周喁が兵を率いて救援に駆けつける。おそらく兵の出どこは周昕が太守となっている丹楊からであろう。だが、これも孫賁は粉砕する。状況から言って兵力的に楽勝の戦いだったとは思いがたい。少なくとも陳瑀は周家と対立するのを避けていた訳だし、袁術も五体満足の状態で淮南にやってきた訳ではない。曹操に大敗した後で兵力的にも余裕があった訳ではないだろう。そんな状況から孫賁は陰陵の奪取に成功し、拠点を得たことによって袁術は息を吹き返す。元々、河南尹だった袁術は淮南流域には影響力があり、こうなると淮南の土着豪族たちは一斉に袁術に与し出す。
- その頃の情勢については少し時間軸に混乱が見られるものの、呂範伝注九州春秋が詳しい。呂範伝注九州春秋によると、(袁術が淮南にやってくると)土着民たちが陳瑀に対して叛旗を翻したとある。つまり、淮南の土着豪族たちが袁術に付き始めたという事だ。そして、袁術は言葉巧みに陳瑀の下手に出て説得をしたので、陳瑀は袁術に攻撃をかけずにいた・・・とある。これはおそらく、孫賁の陰陵攻撃の際に、陳瑀が周昂に援軍を送らなかった事を意味していると思われる。そして、陰陵を奪取した袁術は、土着豪族たちを糾合し、兵力の増強に成功。軍を寿春に進める。事此処に至って、陳瑀は弟の陳琮を使者として袁術に和睦を申し出るが、そんな申し出が受け入れられる訳もなく、袁術は和睦を拒否。陳瑀は下邳に逃げ帰る。以上が呂範伝注九州春秋から推測できる袁術の寿春入城までの経緯である。
- こうして見ていくと、いかに陰陵の奪取が、苦境の袁術を救ったかが分かる。少なくともこの時点で、孫賁は袁術旗下において重要な位置にあった。ところがである。袁術の淮南奪取にこれだけ決定的な働きをしたにも関わらず、孫賁は左遷?される事となる。 ▲▼