【 解体する孫軍閥 】
- 孫堅戦死後、軍中の宗室の中で最も年長で孫堅と血縁が近かった孫賁。その彼がまずやるべき事とは、残った軍勢を率いて袁術の元に戻る事だった。孫堅の意志は兎も角、孫軍閥は袁術旗下の軍だったのである。このあたり孫堅伝を書いていた時期(2000年12月)は孫賁情けなし・・・というイメージを持っていたが、諸事情を考えると孫賁はやるべき事をやっただけと言える。孫堅の遺体引き取りについても、劉表の元にあった孫堅の遺体を、桓階と孫賁が協力して引き取ったと受け取る事もできる。そして長子である孫策に引き渡している訳であるから、なすべき道理をきちんとなしていると言えるだろう。
- 少し、孫堅死亡時前後の孫軍閥の軍容について整理してみたい。この時期の孫軍閥の人材としては、孫賁・孫策・孫河・孫香ら孫家宗室系と、朱治・芮祉ら揚州豪族系、呉景・徐琨ら外戚豪族系、及び程普・黄蓋・韓当ら武官系に分類する事ができる。孫堅在命中の彼らの官位を見てみると以下のようになる。
- 孫香は孫堅の元で手柄を立てて郎中に任じられ・・・(孫賁伝注呉書)
- 呉景は孫堅の元にあって功績を立てて、騎都尉に任じられた。(呉夫人伝)
- 徐琨は孫堅の元で功績を立てて偏将軍に任じられた。(徐夫人伝)
- 芮祉は孫堅の元で手柄を立て、孫堅は芮祉を推挙して九江太守に任じ、後に呉郡太守に転じた。(潘濬伝注呉書)
- 朱治は188年に司馬に任じられ・・・孫堅は上奏して朱治を都尉とし、董卓討伐では孫堅は朱治を上奏して、督軍校尉の任務に当たらせ・・・(朱治伝)
- この時点で程普ら孫堅との私的な任侠的人間関係によって結ばれた武人たちは勢力的な意味合いは持っておらず、官位を得た者はいない。朱治・芮祉ら揚州豪族は、この時点では希有なタイプだ。孫堅期には孫家に近い関係にあった外戚豪族以外はほとんど参入していない。ただし周家と孫家の接近などの事例も見られ(周瑜伝2【 なぜ周家と孫家は接近したのか? 】参照。)、孫堅の反董卓連合への参加が、朱治・芮祉らの去就になんらかの形で関係している事も考えられる。いずれにしても、芮祉は九江太守、朱治は督軍校尉として独立部隊を指揮しており、その重要性は高い。また、二名とも孫堅の推挙、あるいは上奏が行われており、それが後に袁術陣営ではなく孫陣営を選択した理由の一つと思われる。呉景・徐琨らは孫堅の任命というより、袁術の任命という臭いが強い。
- (注)二人とも丹楊の人だというのが気になるが、朱治の場合は、188年以前に孫堅旗下となり討伐に加わっているが、それ以前は太守の従事(属官)だった。黄巾討伐時は、孫堅は県丞・朱儁軍の佐軍司馬(部将)であり、太守の属官であった朱治との関係は薄い。であるなら、むしろ187年に孫堅が長沙太守となった時に、朱治が長沙郡の従事であったと考えると、話は流れる。ただ問題は丹楊の朱治が長沙郡によって孝廉に推挙される可能性はあまり高いとは言えないという点である。
- (注)芮祉に関して言うと、彼がどの程度の豪族だったのかは明記されてないが、孫堅が彼を九江太守やら呉郡太守に任じるというのはあり得ない話で、芮祉を九江太守やら呉郡太守に任命したのは、むしろ袁術であろう。その仲介を孫堅がやった程度ではあるまいか?特に九江太守については、袁紹と袁術の間で九江を巡っての勢力争いの様子が見られ、その過程で任命された可能性も高い。後に呉郡太守となった時期というのは、孫策を九江太守にすると袁術が約束しながら、実際には陳紀を太守にしたという時期があり、だとすればこの時期が芮祉が呉郡太守になった時期ではあるまいか?という事は、朱治の呉郡都尉就任と同時期かもしれない。袁術は呉景が丹楊太守・孫賁が丹楊都尉と言った、ペア作戦を時々やる。
- (注)すさまじく話がそれているが、乗ってきたので続ける(汗。孫家外戚系の去就も面白い。呉景に関して言うと、孫堅期より孫堅が死んでからの方が躍動しており、袁紹系列の丹楊太守である周昕を見事に撃退し、後釜に座っている。この時期は孫家をしのぎ、孫賁・孫策らを配下として使っているような印象すらある。一方、徐琨の方は、孫堅死後、袁術旗下としての動きは一切記述がない。孫策の江東制圧時も呉景・孫賁らが丹楊攻略後、寿春に戻ったのに対し、徐琨はむしろ丹楊の押さえとして、袁術の動きを睨む位置にあった。同じ孫家外戚系とは言っても、その去就は様々である。
- それが孫堅死後になると、多少色合いが変わってくる。孫賁を豫州刺史としたのを皮切りに、呉景を丹楊太守、孫香が征南将軍(時期的には少し後の方と思われるが)、朱治が呉郡都尉、芮祉が呉郡太守となったというのも孫堅死後の事と思われる。さらに孫策も孫賁らとは別の指揮系統を持つ一武官として、袁術陣営に参入してくる訳だ。この状況を一言で表すと、孫軍閥の解体と言える。言うなれば、孫軍閥は袁術の支援を受けて行動していた豪族集団であり、その長たる孫堅が戦死した段階で、この集団をまとめ上げる存在がいなくなり、空中分解を余儀なくされたと言って良い。別の視点で言うと、袁術からしてみても、孫軍閥は解体した方が都合が良いのである。孫堅在命中も袁術が孫堅への兵糧の補給を中止する事態が発生しており、強すぎる孫軍閥への警戒感はあった。孫堅死後となれば、それぞれを駒として使った方が幅が広がるし、孫軍閥の独立化を防ぐ手だてにもなる。こう考えると、孫軍閥が解体したのは孫賁の責任とは言い難いであろう。 ▲▼
- (注)注が面白いので、さらに注w
まず朱治だが、彼は孫堅が黄巾討伐の軍を起こした段階では、孫家の影響下にはなかったと考えられる。影響下に入ったのは、孫堅が長沙太守になってからだ。注にあるように朱治が(長沙郡の)太守の従事だったと考えればスムーズ。ないとは言い切れない。孫堅は徐州下邳県の次官をやっている。州越えがあったとしても不思議ではない。
芮祉の呉郡太守就任時期の考察はちょっと面白い。もし朱治の呉郡都尉就任と同時期なら、その時期に呉郡を実質支配していたのは許貢であるから、芮祉は遥任(形式だけの官位)ということになる。対して朱治伝をそのマンマ読むと、朱治は都尉として実際に呉郡に入っており、銭唐に駐屯していたように思える。これに整合性をつけようとすると、以下のようになる。はっきり言って、この時期の揚州各郡の実情に興味がある日本に数名しかいない方のためだけの記事w- まず、呉郡都尉の許貢が太守の盛憲を追い出した。盛憲は正式な太守であるから、これを追い出したなら、通常、許貢以外の正式な太守が任命されるはずだが、その様子がない。つまり許貢は許靖らとつながりのある、ある程度の名士であり、しかも袁術の公認も得ていた。(と仮定する。根拠がある訳ではない。そう考えるとその後がスムーズだという状況証拠程度。)
- その状態で空席となった呉郡都尉の座に朱治が任命される。袁術影響下にあったので遥任ではなく実地勤務が可能だった。駐屯地は銭唐。
- ところが、劉繇が揚州刺史として赴任、袁術に反旗を翻した。許貢も同時に劉繇影響下に入る。許子将(許邵)が劉繇旗下に加わっているのだから、許氏の一員である(と仮定するw)許貢が劉繇影響下に収まるのは、むしろ自然である。朱治も同様に劉繇に従った。(少なくとも表面上は。)この時期、朱治は孫権を匿い、袁術影響下の長江北岸に避難させている。これは朱治が実際に呉郡にいた証拠にもなるだろう。
- その段階で、劉繇に対抗するため、袁術は芮祉を呉郡太守に任命する。呉郡は袁術影響下にないので当然、遥任。同時期に丹陽攻撃を行っていた呉景・孫賁らと共に、丹陽攻略に参加したと思われる。呉郡に赴任するためには、まず丹陽を攻略しなければならないからだ。しかし、その過程で芮祉は死去したと考える。というのは、会稽攻略後、孫策は芮祉の息子の芮良を会稽郡東部都尉に任命している。これは本来の功績を鑑み、孫策が息子を会稽郡都尉に任命した・・のではないか?孫策の江東攻略戦に芮祉が参加していたなら、当然、呉郡太守として呉郡攻略に関わり、太守になるべきだ。しかし、それがないということは、死去していたのだろう・・と考える。
- 孫策が丹陽攻略を開始すると、朱治は劉繇を裏切り、呉郡を攻略する。許貢は逃亡。呉郡攻略を指揮した朱治が呉郡太守となる。
- (注)注が面白いので、さらに注w