【 幼き皇帝 】
- 孫亮,字は子明。孫権の七番目の息子で,末っ子にあたる。母親は藩夫人。彼女は孫亮を生んだ時,誰かが龍の頭を自分に授け,それをエプロンで受け取った夢を見たという。
- 孫亮は本来,皇太子になれる人物ではなかった。普通,末っ子である孫亮が,皇太子になるためには,その上にいる兄たちが全員死亡するくらいしか考えにくい。しかし,そのあり得ない事が起こってしまった。長男の孫登・次男の孫慮が早世し,皇太子だった孫和と四男の孫覇が,後継者争いの末に共倒れするという異常事態が勃発するのである。この時点で残っている皇太子候補は,五男・孫奮(そんふん)と六男・孫休(そんきゅう),それに末っ子の孫亮となった。こうなると,もはや長子が相続するという常識は通用しない。この三人の中で最も孫権が愛したのが,孫亮だったのだ。そういう訳でわずか八才で孫亮は皇太子となった。しかし,八才の子供に政治の善し悪しを判断する力があるはずもなく,孫亮の皇太子即位は,初めから彼を取り囲む人たちの野心で成り立っていたのである。
- まず,一番身近な存在である母親の藩夫人からして,孫亮を利用する腹づもりだった。彼女は孫亮が皇太子となり,孫権が病につくと,漢の高祖(劉邦)の妻・呂后が自ら政治を取り仕切った前例について,調べていた。つまり,自分で政権を牛耳るつもりだったのだ。しかし,性格が悪く,後宮の中でも嫌われ者だったようで,孫権が死ぬより先に,宮女たちに集団で襲われ,くびり殺されている。
- 次に彼を利用しようとしていたのが,あの孫魯班(全公主)である。魯班は二宮の変では,孫覇派に組したが,孫和・孫覇が共倒れとなると,孫亮に近づいていく。魯班は,自分の夫(全琮)の一族である全尚(ぜんしょう)の娘を,孫亮の妻として孫権に推薦したのである。孫権はそれを受け入れ,孫亮と魯班は親戚関係となる。また全家は,孫亮の外戚となり,呉ではこれまでにないほどの,勢力を持つようになる。
- 252年の夏に孫権が死去すると,孫亮が皇帝の位につき,建興(けんこう)と改元する。孫権死後の呉の体制は,太傅(皇帝の指導補佐)に諸葛恪,太常(祭祀儀礼を司る)に滕胤(とういん),大司馬(全軍の統括者)に呂岱という体制であった。この体制は,内政・軍事それぞれに,現段階で最も優秀と思える人材を補佐につけたものであり,晩年の孫権の施策としては,まっとうな人選だったと思われる。しかし,諸葛恪-滕胤ラインは成立する前から,波乱ぶくみだった。二宮の変で孫覇派にくみした孫弘は,諸葛恪が重要な地位に就くと,自分が粛正されてしまうと考え,詔を改造して諸葛恪を排除しようと企てたのである。企みに気付いた諸葛恪は,孫弘を計略にはめて誅殺して事なきを得た。
- 太傅となった諸葛恪は,呂壱事件などで悪名高い,校官(官史の監察を行う。これによって官史たちが,自由に力を発揮できなかったと考えられる。)の制度を廃止,さらに民の未納の税金の帳消し,関税の取りやめなどの徳政を行う。諸葛恪の初期戦略は良い方向に向かっていたと言えるだろう。しかし,この後,諸葛恪-滕胤ラインは破綻を来たすことなる。▼
- (注)孫亮伝には、一っ大きな特徴がある。「年月だけでなく日まで記される場合が出てきた」ということである。魯粛伝で「曹操本記は日まで記載され、孫権伝は年月のみ、劉備伝では年すら明確でないことがある」ということを書いた。それが孫亮伝になると、いくつかの事件については日まで記載されている。これは孫亮期から「韋昭・呉書」の編纂が始まり、正確な記録が残されるようになったからである。別の視点で考えれば「大事件」だから日まで記しているのである。よって「当時、何を大事件としてとらえていたか?」は、日が記されているかどうか?である程度判断できる。