【 その後の孫亮 】
  • 皇帝の座を追われ,会稽王に格下げとなった孫亮。しかしこの時彼は16才であり,政治の表舞台から引退するには若すぎたし,彼自身の覇気もまだまだ十分にあっただろう。だが自分の意志に反して皇帝の座を追われた人物が,その後も無事平穏に暮らせるような時代ではなかったのである。
  • 孫休の治世になった260年になると,『孫亮が都に戻ってくる?』という噂が会稽郡で広まるようになり,さらに孫亮の側仕えの宮人が,『孫亮は巫女に祈祷をさせ,呪いの言葉を発している。』と告発を行う。実際にそうした事をやっていたのかどうかは微妙な線だろう。しかし覇気を持ったまま隠居させられた前皇帝を,そのまま放置しておくほど孫休は甘い人物ではない。孫亮は会稽王から候官侯(こうかんこう,候官は会稽郡の南の果て。孫策が王朗を追いつめた場所である。)に格下げとなり,その任地に向かう途中で孫亮は自殺した?というのである。
  • これには異説が述べられていて,孫休が鴆毒(ちんどく。鴆というのはキジ科の鳥で,中国では古来から毒として多用されていた。)で,孫亮を毒殺したのだ,という者もいるらしい。孫休は年に似合わずタヌキぶりを発揮する人物だから,そういう事も十分にありえるだろう。任地に向かう途中で殺されるというのは中国では結構良くある事例なのである。かの項羽も自ら傀儡として立てた義帝を,やはり任地に向かう途中で殺している。
  • 孫亮の遺骸は,呉が平定されて晋の太康年間(280年~289年)になってから,呉の元・少府役人であった戴顒(たいぎょう)によって,尋陽(じんよう)の頼郷に葬られた。唯一の救いは,孫亮の妻である全夫人が,孫亮亡き後も候官で暮し,呉が晋によって平定されるまで内地に戻る事はなかったという事だろうか。夫を死に追いやった呉に対するささやかな抵抗,という気がするのである。