【 諸葛恪の失敗 】
  • 東興の戦いの成功によって,諸葛恪は対魏攻略戦に自信を持つようになっていったと思われる。元々,諸葛恪は孫権在命中から寿春や合肥を落とす計画を立てていた。しかし,魏の底力を知る孫権は,諸葛恪では合肥・寿春を落とす事は無理だと考えていたようで,諸葛恪を合肥方面から柴桑に任地を移動させたりしている。諸葛恪はそういった孫権の処遇に不満があったようだ。
  • 諸葛恪は,丹陽の山越を根本から叩き潰す作戦を立てるなど,軍事能力は確かに一流の物を持っていたと言える。しかし,諸葛恪の最大の問題点は,自らの能力を過信しすぎた事にあった。孫策のような希代の軍略家ならいざ知らず,どんな軍人でも必ず一度や二度の敗戦は経験するものである。かの諸葛亮でさえ,何度も北伐を失敗している。しかし,諸葛恪はここまで,軍事的成功しか経験しておらず,自分が動けば必ず勝てると言った類の過信に陥っていたのではないだろうか?それに彼の性格についての問題もある。これは特に父・諸葛瑾や諸葛亮などの親族が言明している点であり,『いい加減な性格で細部を守ろうとしない(諸葛亮)』,『家の安全を守っていけない息子だ(諸葛瑾伝より)』という点が指摘されている。頭は良いが性格に難あり,だったのだ。こういう事から諸葛恪はすでに呉内部に敵を作っていたと思われるのである。
  • さて,東興の戦いの勝利で魏を叩く戦略に自信を持った諸葛恪は,翌年の253年に,大軍を率いて合肥新城を包囲する。前年に軍を起こしたばかりであり,この行軍には当然反対意見が続出し,諸葛恪の補佐にあたる滕胤や友人の聶友(じょうゆう)ですら,時期が悪いと諸葛恪を諫めるが,諸葛恪は引き下がらず,大動員をかけて行軍を開始する。はたして合肥新城を包囲したのは良いものの,魏の最大の防御拠点である合肥新城が簡単に落ちるはずもない。もし孫権なら行軍しても益なしと見たら被害が大きくなる前にさっさと退却したであろう。しかし諸葛恪は戦果を挙げる事に執着し,半年も合肥新城に留まり,大動員した兵の大半を失うに至るまで退却しなかった。失敗が問題なのではない。失敗しても引かなかった事が問題なのである。
    • (注)もう一度、諸葛恪伝を読み直して「面白いなぁ」と思ったことがある。簡単に言うと「アゲ・サゲの幅が滅茶苦茶でかい」ということ。諸葛恪伝の冒頭から東興の戦いに至るまでは、多少軽率な面は見えるものの、頭脳明晰な大人物として描かれている。ところが253年の合肥新城攻撃以降は、これでもかといわんばかりの「サゲ」状態になる。しかも文字数も非常に多く、出征に至る経緯からこの出征でどれだけ甚大な被害が出たか、いかに諸葛恪が尊大な態度を取ったか、いかに人々の心が諸葛恪から離れたか?を筑摩訳で8ページほど書かれている。8ページといったら「関羽伝」と同じ量であるw。背景を考えず、普通に読めば「頭は良く将来を期待された人物だったのに、権力を得て慢心し、周囲が見えなくなったんだなぁ」と読めるだろう。だが「背景」を読むと「面白いなぁ」と思う。なぜなら、そもそも韋昭らに呉書の編算を命じたのは諸葛恪。だから、本来諸葛恪伝は「呉の救世主」として書かれるはずだった。そのつもりで「アゲ記事」を一杯用意していたのだが、諸葛恪は孫峻に殺されてしまった。で、しばらく孫峻・孫綝が国政を担うので、「諸葛恪を殺すに至った十分な理由」が必要になる。となると、合肥新城攻撃の失敗を徹底的に「サゲ」で書き記すしかない。なぜなら、諸葛恪の大きな失策はこれしかないから。よく考えれば一度や二度の大敗なんて、曹操にも諸葛亮にもあることだ。で、諸葛恪が運がなかったのは、孫綝が排された後は、普通なら名誉回復が図られるはずなのに、孫休期になっても、名誉回復がされなかったことだ。なぜかというと、諸葛恪は孫休ら諸王が長江の要所に存在することを好まず、丹陽に移住させ、そこでも冷遇したから。よって孫休期になっても、かわいそうな諸葛恪は名誉回復されず、そのままになった。
      で話は変わって、呉書が未完成だったことを示す資料としてよく挙げられる「滕胤伝のブツ切れ状態」ですが。もしかしたら、こうした「名誉回復」のための書き直しのため、ブツ切れになったのかも・・と思いついた(ただの思いつきです。根拠は求めちゃダメw)。滕胤は孫綝に排されてます。つまり孫綝が権力をふるっている頃は「サゲ記事」を一杯用意していたはず。(その名残も滕胤伝に散在していて、立派な人物と大体は読める反面、死去に至る経緯では偽の勅書を発行するなど、滕胤とは思えぬ行動をとる。)しかし、孫休が滕胤を高く評価していたのは間違えない。(孫綝を抹殺する際、滕胤・呂拠の件を反証として出している。)だとしたら名誉回復をさせるはずで、滕胤伝の書き直しを予定していたのでは?そういうこともあって、滕胤伝はブツ切れになった・・・という妄想です。
  • この諸葛恪の失態は,彼を失脚させたい者たちに絶好の口実を与えてしまった。帰国した諸葛恪を待っていたのは,孫峻によるクーデターであった。