【 孫英・孫儀の反乱 】
  • 孫峻のクーデターは,呉の内部分裂を呼んだ。まあ,当然と言える。功績のない人物が正当性を持たないやり方で官位を極めてしまったのだから。以後孫峻暗殺の計画が続々と計画される事になる。
  • 早速,クーデターの翌年の254年には,呉侯・孫英(そんえい)が孫峻暗殺の計画を立てる。孫英は孫権の長子・孫登の息子である。事の発端は,孫峻らに無実の罪に落とされた孫和派の人々が,孫英を担ぎ上げて孫峻を誅殺しようとした,という事らしい。しかし,この計画は事前に事が漏れ,孫英は非業の最期を遂げる。
  • 運が良かったのは,魏の方でもクーデター騒ぎで,呉に攻め込むどころではなかったということだろうか?254年,司馬師がクーデターを起こし,曹芳を廃して,曹髦(そうぼう)を皇帝に立てる。255年には,それに反対する毋丘倹・文欽(ぶんきん)らが,寿春で反乱を起こすのである。孫峻は毋丘倹・文欽援護に,留賛(りゅうさん)・呂拠を派遣するが,これがまた遅い。呉軍が寿春に到着する前に,文欽らは楽カにて,司馬師の軍に破れてしまう。文欽は敗軍を引き連れて呉軍に合流,高亭では,丁奉らの活躍で,曹珍(そうちん)軍を撃破するが,その後に行われた寿春攻撃では,呉軍は諸葛誕の軍に破れ,留賛は死亡する。三月には,朱異に安南(あんなん,寿春の西にあたる)を攻撃させたが,これも失敗に終わる。この時期は魏もクーデター騒ぎに揺れており,うまく動けば呉にもチャンスはあったと思われる。せめて毋丘倹・文欽らの攻撃と呉軍の攻撃を同時に行えなかったのだろうか?
  • 同年の7月には,孫儀(そんぎ,孫皎の子孫)・張怡(ちょうい)・林恂(りんしゅん)らが孫峻暗殺の計画を立てる。孫儀らは,蜀からの公式訪問の使者との会見の席を利用して,その席上で孫峻を暗殺しようとした。しかし,このような場では内輪の問題を他国の使者に見られる訳で,恥も外聞もあったものじゃありません^^;。それくらい反孫峻派も切羽詰まっていたと言うことでしょう。しかし,この計画も事前に漏れ,孫儀らは,自殺。さらに孫魯班と孫魯育の二人の姉妹の仲違いもこの事件に波及,孫魯班は妹の魯育も反乱に連座していたと孫峻に告げ口をし,孫峻は魯育を殺害した。情夫に妹を殺させる・・・すさまじい人間模様ですね^^;。
  • また255年は,ひどい旱魃だったらしい。孫権の治世にも災害は多く起きているが,孫権は民衆救済策を取っていたので,こうした災害が起きても民が不満を抱くということはなかった。しかし,この年の旱魃には何の策も取られていないように思われる。正史の記述に『民衆は飢え,民の心が呉から離れた』と書かれているのである。孫権伝にはこういう記述は出てこない。つまりこの年の旱魃に対して孫峻は何も対策を取らなかった・・・と見てよいだろう。さらに,孫峻は始祖・孫堅の廟を立てる。災害の起きた年にこういう建築を行うのは,民衆の不満を爆発させることになる。256年には建業で火災が発生。国内はシッチャカメッチャカ状態のまま,孫峻の施政は続いていく。 
    • (注)ちょっと、孫峻の弁明?という方向で。255年に軍を起こしたのは呉だけではない。姜維も軍を起こしている。クーデター騒ぎに乗じるのは当然であり、これだけ国力差がついた状況ながら、呉は文欽らの投降や曹珍軍の撃破、蜀は一時は狄道・河関・臨洮三県を落とすなど、一定の成果のあった年である。つまり「大失敗」というほどではない。チャンスを生かせなかったのは確かではあるが。まあ、それを言うなら姜維も同じである。
      また「豪奢な生活をした」「罪のない者を陥れた」「孫魯班と内通した」「災害に際して民を救済しなかった」等の批判は具体性に欠ける。後に孫休によって排斥された孫綝との関係により、マイナス方向のディバイスがかけられている可能性は十分にある。
    • (注)孫亮伝に255年に「建業に孫堅の廟を立てた」(筑摩訳)とある。しかし巻末の年表には「12月に建業に太祖(孫権)の廟を立てた」とあり、記述が一致していない。原文を見ると「十二月作太廟」。これは太祖(孫権)の廟を立てたという意味だろう。つまり筑摩訳は単純に「孫権」を「孫堅」と打ち間違っただけな可能性がある。孫堅の廟は孫権が長沙に立てている。