【 孫亮廃位 】
- 孫亮の孫綝誅殺計画の露見には,孫亮夫人である全夫人との関係が記述されている。この辺が実にややこしい。まず孫亮の妻は全尚(ぜんしょう)の娘,全夫人である。まず陳寿は,その全夫人が孫綝の従姉の娘であったから孫綝に誅殺計画を密告したと記述している。しかし,全夫人は孫亮廃位後も孫亮に付き従い,呉が平定されるまで内地に戻る事はなかったという人物であるから,夫の危機を自ら作り出すような行動を取るというのが腑に落ちない。裴松之もそう思ったのか,異説として『江表伝』の記述を採用している。
- 孫亮は全紀(全尚の子)を呼び,『孫綝の専横は目に余る。先だっての諸葛誕救出作戦では,急いで軍を寿春に向かわせるように指示したのに,勝手に朱異を殺害して,その事を上奏すらしなかった。また今度は朱雀門に私邸を作って,参内すらしてこない。もはや許しておく事はできぬ。あなたの父上の全尚は中央軍の都督であるから,秘密裏に軍を指揮して厳戒態勢に入るように伝えてほしい。私は近衛兵と左右の無難軍(孫亮自ら設置した特別部隊の事か?)を指揮して,孫綝を一気に包囲するつもりだ。ただし,父上にこの事を知らせても,母上には知らせてはならない。あなたの母上は孫綝の従姉にあたるから,もしかしたらあなたの母上から事前に事が漏れる恐れもある。くれぐれも用心して事にあたってほしい。』と,告げるのである。確かにこちらの方が色々とつじつまは合うようである。つまり全尚の妻は孫綝の従姉でもあった訳だ。まあ,ややこしい人間関係である^^;。
- 孫亮からの指令を受けた全尚であるが,この変事をどれくらい重要だと考えていたのかちょっと疑問が残る。全尚は孫亮からのくれぐれも用心して・・・という言葉にも関わらず,妻にその事を告げてしまったらしいのである。かくして全尚の妻から孫綝へと事態が告げられ,孫亮の孫綝誅殺計画は孫綝の知るところとなる。ここからの孫綝は,寿春であれだけの失態を犯した人物とは思えないほどの急速な動きを見せる。孫綝は258年9月26日夜半,全尚に夜襲をかける。さらに劉承を青龍門外で弟の孫恩に斬らせ,そのまま一族の軍を率いて明け方には宮廷を包囲した。孫亮にしてみれば,一夜明けて起きてみたらすでに宮廷が包囲されていた訳で,完全にしてやられたと言うところである。激怒した孫亮は馬に乗って弓を取り,『私は大皇帝(孫権)の嫡子であり,皇帝となってもう五年(六年の間違え?)にもなる。俺の命令に従えない者が何処にいるのか!!』と言って,出陣しようとするが,側近や乳母たちが必死に彼を取り押さえた。もう決着はついていたのである。
- 孫綝は,宗廟の神々(祖先を祭る廟と言うことでしょう。つまり255年に建てられた孫権廟の事と思われます。)に孫亮を廃位する事を告げる。さらに諸官を集めると『少帝(孫亮)は病気が進んで物事の判断がつかず,もう皇帝の位におつけすることができない。諸君の中に賛同できない者がいたら異議を申し立てよ。』と言い放ち,孫亮廃位の署名を拒否した桓彝を殺害する。孫亮から璽綬(皇帝の印の印鑑。玉璽の呉版ですね。)を召し上げ,各地に孫亮を廃位して会稽王に格下げした事を告げさせた。
- なぜ孫亮の孫綝誅殺計画は失敗して,孫綝のクーデターは成功したのだろうか?結局の所,孫亮は若かったと言うことだろう。クーデーターは完全隠密行動でなくてはならない。正合性は後からつければいいのである。つまり全一族を巻き込まなくても,自分と自分の指揮下にある近衛兵だけで秘密裏に行動を起こして,後から全一族の協力を得れば良かったのである。その点,孫綝は自分の一族しか信用していないという懐の狭さが,逆にこういった政変ではプラスになったのであろう。確かに孫綝は一族・兄弟しか任用していない。
- 孫亮は皇帝となること6年で廃位され,その名君としての素質だけが伝えられる事となった。乱世の幼帝としての悲しさである。 ▲▼