【 孫峻変死 】
  • 孫峻は対魏強行派であった。その考えは諸葛恪とよく似ている。毋丘倹・文欽の乱にも呼応したし,その後も衛尉の馮朝(ふうちょう)に命じて広陵に城を築させようとしたり(未完成),その馮朝を徐州方面の総司令官に任命したりと,徐州への進行にも意欲を見せている。別にこの事自体は悪いとは思わないのだが,それならば同じく対魏強行派の諸葛恪を誅殺する必要は無かったし,軍事行動に出るなら,不満が出ないように内政もしっかりと見るべきだった。しかし残念な事に孫峻には政治的な能力は?マークが10個くらい付いてしまう。
  • 256年には,文欽の策を用いて青州・徐州の攻略に乗り出す。その陣容は文欽に,驃騎将軍の呂拠・車騎将軍の劉簒(りゅうさん)・鎮南将軍の朱異・前将軍の唐咨(とうし)という,そうそうたるメンバーである。孫峻は軍を江都から,淮水・泗水に侵攻させる。しかし,そこまでの進軍をしておきながら,孫峻の摩訶不思議な行動がまたもや勃発する。自軍である呂拠の陣容を見て,自分を殺す気では?と疑心暗鬼に陥り,単身で引き上げてしまうのである。この頃になると,相次ぐ暗殺未遂事件と諸葛恪誅殺の後ろめたさから,ほとんどノイローゼ状態としか思えない。軍から逃げ帰った孫峻は,諸葛恪に殴られる夢を見て恐ろしさの余り病気になって死んでしまう。最後になって諸葛恪が孫峻に復讐を成し遂げるのであった。
    • (注)今見ると、全て怪しい挿話に見える。「呂拠の陣容を見て疑心暗鬼になり、単身逃げ帰った」「諸葛恪に殴られる夢を見た」。全て想像の産物であり、事実として認識できるのは、「病気になったこと」「病死したこと」である。となると、単身引き上げたのは当然「病気になり軍を統括できる状態でなくなったから」であろう。その後、死んでいるのだから。
      また、これを書いた当時は「孫峻は孫綝を自分の後任とした。」という呉書の記述をそのまま記載したのだが、よく考えたら「後任の割には官位が低い」。孫峻は大将軍・丞相。孫綝は後を引き継いだ段階で「侍中・武衛将軍・領内外諸軍事」。大将軍も丞相も引き継いでいない。つまり、軍事面はまだしも、宮中での影響力には結構な違いがある。おそらく孫綝が軍事面を掌握したことに対して、数々の反発が生まれている。孫綝に権力が集中するのは、孫休期になってからである。
  • しかし,この後の後事がまた,孫峻らしい。自分の後継に,ただの偏将軍(一番,格式が低い将軍職)である孫綝を付けるのである。孫綝は孫峻のいとこに当たる。これまた孫綝には実績はない。皇族だというだけである。孫綝は,武威将軍・侍中・領中外諸軍事(軍事の総括役)となり,淮水まで遠征していた軍に帰国命令を下す。良い迷惑なのは,淮水近くまで進軍していた遠征軍である。呂拠は孫峻が死んで,勝手に孫綝が政権を掌握したと聞いて激怒,孫綝を取り除こうとする。
  • 孫峻・孫綝と諸葛恪・呂拠らの反目には,たぶん皇族と豪族の勢力争いという側面もあるだろう。魏の場合は皇族の力を押さえる政策をとった結果,司馬一族の専横を許す事となった。呉の場合は,皇族が専横を行った。まあ,どっちもどっちだろう。幼帝・孫亮が皇太子になった事がそもそもの間違いである。