【 東興の戦い 】
  • 呉の巨人・孫権の死は魏にとって,またとない呉攻略のチャンスだったと言えるだろう。252年十月,魏は諸葛誕(しょかつたん)・胡遵(こじゅん)らを東興に,王昶(おうちょう)を南郡に,毋丘倹(かきゅうけん)を武昌に進軍させる。まず南郡と武昌に軍を進め,援軍が来れないようにしてから,東興に大軍を送り,合肥へとなだれ込もうという戦略である。
  • 孫権は以前,巣湖から合肥への水路をせき止めて,東興堤という堤防を築いている。諸葛恪はその左右に城砦を築いて,右の城には留略(りゅうりゃく),左の城には全端(ぜんたん)を守備に当たらせていた。諸葛誕・胡遵が目指したのはこの東興の左右の城である。魏はこれを撃破して合肥から呉領内に進入しようつもりだった。これに対して,呉は諸葛恪自らが東興に出向き,これに対応する。
  • 諸葛恪は東興に到着すると,魏軍を大いにうち破り,部将の韓綜(かんそう)・桓嘉(かんか)を戦死させるという戦果を挙げた。これは諸葛恪の指揮能力も勝因にあるだろうが,呉書を読むと丁奉(ていほう)の活躍が大きいと思われる。丁奉は特攻隊長的存在として,たたき上げの呉の武人たちの精神を受け継ぐ最後の武将と言ってよいかもしれない。丁奉は軍の進行が遅い事に気付き,自分の部隊三千を急行させて上流に布陣,魏軍が酒盛りをしている所に急襲をかける。さらに呂拠(りょきょ)も攻撃に加わり,魏軍を大いに打ち破ったのである。
  • 東興で諸葛誕・胡遵が敗れた事により,魏軍の戦略は破綻。南郡・武昌に進軍した王昶・毋丘倹も陣地を焼き払って退却した。呉の大勝利である。孫権死後,不安要素の多かった呉にとって,この勝利は久々の大戦果であった。この勝利は孫権死後,危機感を持つ一部の武人たちの奮迅の戦いによる戦果と言って良いだろう。しかし,逆にこの勝利が諸葛恪に余計な自信を与えてしまった。また,諸葛恪が功績を挙げすぎる事を良しとしない者が呉の中には存在していた。それらの主導権争いによって,この東興の戦いの勝利は,結局,呉を最悪の方向に進ませることになってしまうのである。
  • さて,魏の方であるが,この時期,実権は司馬師(しばし)が握っていた。呉の方も孫亮は,まだ元服もしておらず,補佐として諸葛恪・滕胤らが政治を仕切っていた。補佐官が国政を仕切っていたと言う点で,この時期,魏も呉も実状はよく似ていた。その後,皇帝が廃位されるという事態までそっくりである。(ちなみに孫亮も曹芳も八歳での即位です。こんな所まで良く似ていますね^^;)補佐をする人物の技量が問われる時期だったと言えよう。しかし,この補佐官の技量の差は歴然としていた。司馬師は敗戦の責任は自分にあるとして,敗北した諸葛誕・胡遵らに,責任が及ばないようにし,逆に諸軍を統括する地位にあった,兄弟である司馬昭の官位を削ったのである。見事な人心掌握術と言って良いだろう。失敗を自分への信頼に変えてしまう司馬師と,成功が過信を生み,内紛の遠因となってしまった諸葛恪。上に立つ者の器量がいかに重要かと言うことがわかる事例と言えるだろう。