【 諸葛誕の乱 】
  • 呉で孫亮と孫綝が主導権争いをしていた頃,魏の方に一つの事件が起きる。寿春で諸葛誕が反乱を起こしたのである。諸葛誕は呉の臣下と称して,救援軍を送ってほしいと伝えてくる。これに対して,呉は文欽・唐咨・全端らに3万の軍を率いらせて,寿春城の諸葛誕と合流させた。
  • これは,呉にとってはまさに降って沸いたチャンスであろう。しかし,軍の総指揮官となった孫綝は,この状況も自分の権威の確立に使ってしまう。なんと,朱異に命じて味方である夏口方面司令官である孫壱(そんいつ)を攻撃したのである。孫壱は,呂拠・滕胤と婚姻関係があり,反孫綝派と見られていた。その潜在的な敵を先に叩いておこうという訳である。結局,孫壱は危機を悟って,私兵千人を率いて魏に降ってしまう。戦う前から,味方の志気を下げ,わざわざ,魏への投降者を出したわけだ。なんとも,開いた口が塞がらない。
    • (注)というより、孫綝が滕胤・呂拠を「嵌めた」ことは、ほぼ周知の事実であり、孫壱は放置しても離反する。それなら先に叩いてしまおうということである。しかし、事の流れは孫壱も理解しているので、後手に回ることなく、先手を取り魏に降った。「わざわざ味方を敵に回した」のではなく、必然の流れである。
  • さらに呉内部でも,会稽郡南部と鄱陽・新都で反乱が起きる。(山越との表記はありません。しかし,会稽南部に鄱陽というと山越の拠点があった所です。この頃になると山越もずいぶんと住民として戸籍に数えられるようになったのかもしれません。)これに対しては,鍾離牧(しょうりぼく)・丁密(ていみつ)・鄭冑(ていちゅう)らが軍を率いてこれを鎮圧した。しかし,戦う前からずいぶんと志気の上がらない事件が続く。
    • (注)これも同じ。有力豪族が排されたことにより、国内は混乱している。だから反乱が起こる。これを未然に防ぐための措置が「大赦・改元」である。余計な動きではなく、有力豪族を排したことによる国内の混乱は、防ぎようがなかった。257年には、孫綝は長沙郡東部を割いて湘東郡、西部を割いて衡陽郡、会稽郡東部を割いて臨海郡、豫章郡の東部を割いて臨川郡を作っている。こうした分郡の措置は反乱鎮圧のための措置とみて良かろう。あるいは郡太守の数を増やして官位を増やし、豪族の安寧を図る意味もあるのかもしれない。
  • このような余計な動きをしながらも,孫綝は軍を率いて寿春の救援に赴く。しかし,先鋒となった朱異は州泰(しゅうたい)らに阻まれ,どうしても寿春の囲みを破ることができない。この寿春包囲網と,それを崩そうとする呉軍・諸葛誕軍の激突は相当熾烈を極めたようである。詳しくは朱異伝(いつになることやら^^;)で述べます。この激突がどういう終焉を迎えたかというと,結局,指揮官の孫綝と先鋒の朱異の仲違いから,呉軍が勝手に自滅してしまうのである。元々の原因は,孫綝の現場無視の指令に朱異が怒って,命令を拒否した事に発する。朱異の命令拒否に怒った孫綝は朱異を斬首。これが引き金となり,さらに呉軍の結束が崩れる。司馬昭が,『呉(孫綝)は全懌らの家族を誅殺しようとしている。』と,流言を流したため,全懌・全端・全緯・全儀ら全一族が総出で魏に投降したのである。全家は孫亮の外戚であり,全尚(ぜんしょう)は孫亮の懐刀と言って良かった。孫綝が全一族を誅殺しようとしているというのは,非常に信憑性が高かったのである。このあたり,さすが司馬昭である。結局,朱異の斬首・全一族の投降とボロボロになった呉軍は諸葛誕の救援を諦め,退却する。
    • (注)で、この結果である。「滕胤・呂拠の排斥」により、有力豪族との関係がギクシャクした。それが朱異の命令違反・全家総出の投降劇につながる。その辺りまで読んでいる司馬昭はさすが。物が違う。孫綝にしてみれば、諸葛誕の反乱は却って、ありがた迷惑だったのではないか?時期が悪すぎた。
  • 救援の当てを失った寿春軍は悲惨を極めた。諸葛誕と文欽らの内紛が起き,文欽は諸葛誕に誅殺される。食料のつきた寿春城は258年・4月に陥落。諸葛誕は一族皆殺しになるのである。この一連の諸葛誕救出作戦で,孫綝は敵を叩く前に,味方の孫壱・朱異を叩き,全一族の魏への投降という最悪の事態を引き起こした。軍事能力は皆無と言って良いだろう。その意味では孫峻よりタチが悪い。外敵と戦う時に,国内の事情を持ち出して,戦えると思っていたのだろうか?諸葛誕の乱は孫綝の大失敗により,最悪の終焉を迎えた。