【 孫峻のクーデター 】
  • 半年近くにも及ぶ合肥新城攻撃の遠征から帰国した諸葛恪は怒り心頭であった。諸葛恪は自分が遠征中に新しく任命された地方長官たちを全て罷免して,再度任命をやり直させた。自分が決めていない事は認められないと言うわけである。さらに諸葛恪は,再度,青州・徐州に軍を進める計画を練り始める。
  • 帰国後の諸葛恪は,冷静さを失っている。遠征の失敗で自分に対する信頼が薄らいでいる事を感じながらも,虚勢を張ろうとし,遠征の失敗を遠征で取り戻そうというわけである。もちろん,こんな状態の補佐官に人々が付いていける訳がない。これに目を付けたのが孫峻(そんしゅん)である。孫峻は,酒宴と称して宮中に諸葛恪を招き入れると,その場で諸葛恪を誅殺したのである。
  • 孫峻は孫権の臨終の際に,諸葛恪・滕胤らと共に孫亮の補佐を託された人物の一人であった。孫峻の官職は侍中(秘書官)である。侍中は格式としては落ちるものの,皇帝の側近としてその発言力は大きく,孫権政権の末期には,すでに孫峻は皇族の第一人者として認知されていたようなのである。さらに彼は武衛将軍(宮中の近衛兵の統率をする)の位を兼任していたため,宮中の近衛兵を直接,指揮できる立場にあった。こうした背景から孫峻はこのようなクーデターを起こすことが可能な位置にいたのである。しかし,元々孫峻は,諸葛恪を太傅に推薦した人物の一人であった。孫峻は孫権に対して,諸葛恪を置いて国政を任せられる人物はいないと重ねて上奏した。にも関わらず,こうもあっさりとクーデターに打って出たというのはどうにも解せない。孫峻の上奏は本心からの物だったのだろうか?いずれ自分が実権をにぎるチャンスをねらっていたのではないか?という気がする。
    • (注)孫峻について。孫峻は前述のように孫権在命時から皇室の第一人者として認知されており、武衛将軍・侍中として、宮中において一定の権力を持っていた。また、孫権死後は一貫して諸葛恪を支援しており、諸葛恪の合肥新城包囲戦に至るまで、その関係は良好である。この二人に亀裂が生じたとすれば、諸葛恪が孫峻の領域である宮中の宿衛にまで手をまわしたためであろう。諸葛恪が宮中においても権力集中を画策したことにより、親族である孫峻が未然にそれを阻止した・・と考えることもできる。というのも、諸葛恪はこの時点で「太傅・大将軍・荊州牧・揚州牧(一説には丞相とも)」。とんでもない権力集中状態である。その状態で宮中の宿衛まで手中にしたら、それはもう誰も手が付けられない。
      孫峻は、その後も滕胤とは協調路線を取っていたり(内心は疎ましく思っていたという想像による批判がされているがw。なんでそんなこと、孫峻以外の人間が分かるのかと。)、孫綝とは異なり自らの一族を高位につけた・・ということもない。孫弘抹殺・孫英殺害・孫儀のクーデター事前阻止等、自分に取って代わろうとする孫家親族の排斥は行っているが「国政を壟断した」というほどなのか??という疑問は残る。
      確かに大将軍兼丞相は破格の権力集中ではある。孫亮が成人していく過程で、なんらかの騒乱になっただろうことは想像に難くない。しかし皇帝が未成年である以上、後見人は必要であり、宮中においてそれができる親族は孫峻だった・・と考えることもできる。つまり「皇帝代理」である。諸葛恪が「太傅・大将軍・荊州牧・揚州牧・(丞相)」を兼ねていた状況よりはマシ・・とも考えられる。それが証拠に「孫峻期は有力豪族の排斥・離反はない」。逆に言えば、比較的安定していた時期なのである。孫綝は後に、孫休により排斥された。そして孫休はこの二名が孫姓を名乗ることさえ許さず、故峻・故綝と呼んでいる。つまり「韋昭・呉書」が編算される過程で、おもっいっきりマイナスディバイスをかける必要のある人物であり、悪名を受けるのは当然のことである。ということは、この二名の記述の中で「批判材料として具体性が欠けている記述」は、そうした視点からマイナスディバイスをかけた記述と疑ってかかった方が良いかもしれない。
  • 諸葛恪死後,孫峻は丞相・大将軍となり,呉の全ての軍務を統括する地位に就くことになった。丞相と大将軍を兼任するなぞ,破格の権力の集中である。それを今までなんの功績も立てていない孫峻がいきなりなってしまった。しかも,孫峻はクーデターの成功後,さらに驕り高ぶるようになる。豪奢な生活をし,多くの人を罪に落とし,さらにあの孫魯班と内通したというのである。呉でまともに政治を行える人物は,滕胤一人という状態になってしまった。孫峻も滕胤まで手に掛ける事はできなかったようで,諸葛恪誅殺後,引退を申し出た滕胤を引き留めて共に政権にあたることにしている。しかし滕胤の運命もまた風前の灯火であった。