【 滕胤・呂拠の反乱 】
- 孫峻の次は孫綝。呉では皇族の専横が続く。いや,別に専横でもトップの人物が優秀であればそれで別に構わないのだが,孫峻も孫綝もお世辞にも優秀とは言えず,むしろ驕り高ぶり,政権を乱用するタイプである。これに対して唯一対抗しうる人物は滕胤ただ一人と言って良かった。遠征中に孫峻の後を孫綝が継いだ事を知った呂拠は,これ以上の専横はもはや許せんと激怒,遠征軍の武将たちと連名で,滕胤を丞相に据えるようにと上奏する。孫綝への牽制である。滕胤は孫権から正式に孫亮の補佐を託された人物であり,この滕胤しか,孫綝の対抗馬は存在しなかったのである。
- しかし,孫綝は逆に滕胤を政権から遠ざける。この年に死去した呂岱に替えて,滕胤を大司馬(軍部の最高責任者,荊州の守備のために武昌を任地とするのが恒例であった。)に任命したのである。軍部の最高責任者と言っても,滕胤は明らかに文官であり,その政治能力が評価されていたのである。滕胤を建業から離れた武昌に送り出すことで,中央政権を独占しようという考えは明らかであった。
- こうなると,呂拠・滕胤と孫綝の対立は決定的である。呂拠は遠征軍をまとめて帰路につくと,滕胤と連絡を取り,孫綝へのクーデターを決意する。呂拠の考えは遠征軍をそのままクーデター軍としてまとめ上げ,孫綝を倒して滕胤を丞相に迎え入れようというものであった。しかし呂拠の計画は最初の段階で頓挫する。クーデターを起こすなら隠密行動が基本なのだが,呂拠の叛意は明らかであり,クーデターの計画は孫綝に筒抜けとなる。孫綝は勅書を使って,文欽・劉簒・唐咨らに呂拠を討つように命じる。そうなると皇帝には逆らえないというわけで,遠征軍の主力部隊である文欽・劉簒・唐咨らは孫綝派に就いたのである。反乱を起こすならまず内部を固めるべきだったのだが,呂拠の計画は第一歩で躓いてしまう。さらに孫綝は従兄弟の孫憲(そんけん)を大将に丁奉・施寛(しかん)らを江都に遣り,呂拠を討たせる。結局,呂拠の計画は勅書という大義名分の前に完全に押さえ込まれた。そうとは知らない滕胤は,最後まで呂拠が援軍にやってくる事を信じながら,孤立無援のまま孫綝の送り出した劉丞(りゅうじょう)軍に敗れ,一族は皆殺しとなってしまうのである。そして呂拠も自殺する。
- (注)孫権崩御後、呉の国政は混乱しているように見えるが、諸葛恪の失脚、および孫家親族を担いだ小規模の反乱はあっても、有力豪族たちの離反は起きていない。その有力豪族の離反を招いたこの事件は非常に大きな意味を持っている。そういう意味もあり、この事件に関連しては、年月だけでなく日まで記されている。
(9月14日)孫峻死去。孫綝、侍中・武衛将軍・領内外諸軍事に任命される。呂拠らに帰還命令が下される。呂拠、孫綝が実権を握ったと聞き、大いに怒る。
(9月16日)大司馬・呂岱死去。
(9月19日)呂岱ら遠征軍、滕胤を丞相にするよう上奏。
(9月30日)孫綝、滕胤を呂岱に代わり、大司馬として武昌に駐屯させる。呂岱、孫綝討伐を計る。
(10月4日)孫綝、孫憲・丁奉・施寛軍でもって、呂拠を江都で迎え撃つ。劉丞軍でもって滕胤を攻め、滕胤一族を抹殺する。
(10月6日)大赦を行い、年号を「太平」と改める。
(10月8日)呂拠を新州(建業付近の中州)で捕える。
これだけ細かく記されているのは孫亮伝で一番である。つまり「孫峻死去→孫綝政権掌握」というのは大事件なのである。孫峻死去後、誰が国政を担うのか?という選択において、孫綝がそれを引き継ぐのはかなり苦しい。孫綝がいきなり丞相・大将軍というのは無理だし、領内外諸軍事だけでも厳しい。普通に考えれば、孫峻死後は滕胤が丞相として国政を担うべきだろう。だから滕胤を丞相にせよ・・それが9月19日までの流れ。
で次が9月30日なので、しばらく間が空く。この間に孫綝は「滕胤・呂拠排斥」を考え出したと思われる。それが丁度死去した呂岱に代わって、滕胤を武昌に出し、宮中から追い出すという策である。(形式的には昇格。実際は追放。)当然、滕胤・呂拠は反発する。それを準備期間を置かず、一気に叩く。9月30日に滕胤追放を命じ、10月4日には、もう追討軍を起こしているのだから、これは速い。反意を知ってから軍を起こしたのではない。むしろ「嵌めた」。で、事が成ったので、大赦・改元を行い、民心の安定を図っている。これにより、孫綝は功績を立てることに成功し、大将軍となる。孫峻の後を引き継ぐには、権威の足りなかった孫綝が、権威を得て政権を掌握すると共に、政敵を排除するための策がこの「滕胤・呂拠の反乱」である。
しかし、一見、成功に見えるが結局は「有力豪族を排した」ことには変わりなく、残った有力豪族が「自分たちも排されるのではないか?」と疑心暗鬼になるだろうことは想像に難くない。
- (注)孫権崩御後、呉の国政は混乱しているように見えるが、諸葛恪の失脚、および孫家親族を担いだ小規模の反乱はあっても、有力豪族たちの離反は起きていない。その有力豪族の離反を招いたこの事件は非常に大きな意味を持っている。そういう意味もあり、この事件に関連しては、年月だけでなく日まで記されている。
- 反乱勢力を押さえ込んだ孫綝は,大将軍・永寧公となり,名実ともに呉のトップとなる。そこで孫綝がキチンと政治を行ってくれれば,それでも良かったのだが,孫綝は驕り高ぶり,礼に背く行為を連発する。そのため一族であるはずの孫憲(孫慮という表記もあります。孫権の次男の孫慮と混同しやすいので,孫憲という名前の方が使われるようです。)も,孫峻の頃より自分が冷遇されている事に腹を立て,将軍の王惇(おうとん)と計って孫綝の誅殺を計画するが,これも事前に事が発覚,王惇は孫綝に殺害され,孫憲は毒を飲んで自殺する。
- こうして,諸葛恪・滕胤・呂拠ら,孫権から正式に孫亮の補佐を託された人物たちは全て消えていった。確かに,彼らには戦略眼というものが抜け落ちていた,と言われても仕方のない所はある。しかし,それでも孫峻・孫綝らに比べると百倍まともだっただろう。なんとも残念な話である。 ▲▼