【 孫休の人事戦略 】
- さて皇帝となった孫休さん。初めにやらなくてはならないのは人事の更新である。孫休が即位してから官位が上がったり,重要な地位に就いた者は,
- 薛詡(せっく) 五官中郎将
- 薛瑩(せつえい) 散騎常侍(さんきじょうじ)
- 虞汜(グシ) 散騎常侍
- 賀邵(がしょう) 散騎常侍
- 王藩(おうはん) 散騎常侍
- 陸凱(りくがい) 征北将軍
- 桜玄(ろうげん) 監農御史(かんのうぎょし)
- 韋曜(いよう) 中書郎・博士祭酒(はくしさいしゅ)
- 濮陽興(ぼくようこう) 太常(たいじょう)・衛将軍
- 張布(ちょうふ) 輔義将軍
- 李衡(りこう) 威遠将軍
- (注)ここ、面白い所なので再考察。孫亮伝で述べたように、諸葛恪失脚後の孫峻体制では主要豪族との反目は起きていなかった。しかし孫綝が政権を掌握する過程において、主要豪族との反目が起きた。それにより国内の混乱が見られる。そういう状況下で孫綝は孫亮を廃位した。国内の大混乱は必至である。その状況下で、孫綝は孫休に皇帝になるよう使者を送った。9月26日に孫亮を排し、翌27日には孫休に帝位についてほしいという使者を出しているのだから、大急ぎである。
なぜ孫綝は急がなくてはならなかったのか?それは、もちろん「混乱を収拾するため」である。孫権の正当な跡継ぎである孫休を皇帝に据える意思を明確にし、孫綝に自らが皇帝を名乗る意思がないことを示さなくてはならない。だが、この時点でほとんどの人間が孫綝の野心に対する疑惑を持っていたはずである。それは孫休も同じ。
だから、孫休はのんびりと建業に向かった。ただ学を示すためにのんびり御幸したのではなく、状況を確認するため、じっくりと観察したのだ。「ぐずぐずしていると政変が起きる(孫綝が皇帝になってしまう)」というのは、こうした情勢を示している。もし皇帝不在の状況下で孫綝が不穏な動きをしたなら、最後の正統な跡継である孫休は、孫家本流の最後の砦として孫綝と争わなくてはならない。しかし重ねて孫綝が使いを寄こしたので、孫休は孫綝に反意なしとみて建業に入る。そこから先は孫休伝1で述べた通り。学問の知識を活用して皇帝としての格式を上げた。
で、次に孫休が行うべきことは「人事」である。孫休は258年10月18日に建業に到着(出発してから20日以上かかった)。21日には孫綝一族への人事を発表している。それが下記の部分。孫綝を丞相・荊州牧とした。元々、大将軍であるから、これで「大将軍兼丞相」。孫峻と並んだことになる。荊州牧がついている分、孫綝の方が上かもしれない。さらに孫綝の一族を悉く昇格させた。つまりこれは「私(孫休)は孫綝を最大限尊重しますよ」。という意思表示。つまり、その後に行われたであろう、上記の人事には孫綝も絡んでいる。張布や濮陽興が昇進しているので、間違えなく孫休が考えた人事だろうが、それが孫綝の意に沿ってなければできることではない。つまり、孫綝にとっても「主要豪族との信頼関係回復」は至上命題だったのだ。このことから言えるのは、「当初、孫休は孫綝との二人三脚での政権運営を考えていた」ということ。その後、孫休の行動指針を見ても、もし孫綝が問題なく政権を運営してくれるなら、それで良かったのである。
- もう一つ気になるのが散騎常侍(さんきじょうじ)という官職に就いた者がずいぶんと多い事。散騎常侍というのは,要するに皇帝の側近として勅書の伝達をする係であるが,従来はこれは宦官の役目だった。孫休は宦官に替えて薛瑩・虞汜・賀邵・王藩の四名を据えた訳である。これはずいぶんと評判が良い人事だったらしい。
- こう見ると孫休の人事は大変優れたものに見える。が,全部が全部成功という訳ではなかったようである。孫休は当時評判のあった人物を登用したのであるが,中には濮陽興や張布のように,実は役に立たない人物も入っていた。その後を見ても,孫休自身にはそんなに人材を評価する目というのはなかったように思えるのである。丹楊にいた頃に酷い目に遭わされた李衡を罰することなく役目につけた事などを見ても,孫休は,非常識な人事はしなかったし,徳のある所も見せた。新しい事もやった。けど,人物を見る目まではなかった・・・という評価が妥当なような気がする。
- それと,孫休にはもう一つ大事な人事が残っていた。孫綝に対する処遇である。こいつは一歩間違えると,孫亮の二の舞になりかねない。孫休さんとしても非常に気を遣う所である。では孫休さんはどうしたかというと,全面降伏をした(爆)。なんと孫綝の一族を須く要職に就けたのである。
- 孫綝 丞相・荊州牧
- 孫恩 御史大夫・衛将軍・中軍督
- 孫拠 右将軍
- 孫幹 雑号将軍??