【 蜀の滅亡 】
  • 魏の蜀侵攻に,交州の離反。孫休さんも学問云々言ってられなくなってきた。この時点で呉が取れる軍事行動は大まかに分けて,
    • 蜀を援護して魏に攻め込む。
    • 蜀を援護して,蜀方面に援軍を送る。
    • 交州の平定に向かう。
    • その他の選択。
    これくらいだろうか?おそらくこの中で真っ先に切り落とされたのが3の交州平定に向かう,であると思われる。交州は離反したと言えど,現時点では地方の反乱に過ぎなかった。呂興も魏と連絡を取ってはいたものの,遠すぎて魏も呂興に官位を与えるのが精一杯だったのである。
  • というわけで,当面の大問題は魏の蜀侵攻であった。もし蜀が滅びるような事があれば,三国鼎立の根本が破滅し,呉の存続にも大きな影を落とす事になる。そこで孫休は,魏の寿春方面に丁奉を,南郡(荊州)に留平(りゅうへい)と施績(しせき)を送り荊州北部への侵攻を検討させ,さらに丁封(ていふう)と孫異(そんい)に漢水へと軍を進ませるという,従来通りの魏侵攻作戦を取った。要するに1の蜀を援護して魏に攻め込む,という方針をとったのである。しかし呉が魏に侵入しても,蜀が魏の進軍を防ぐ事ができるという期待は薄であった。そこまで,蜀の戦線は最悪の状態になっていたのである。実際,呉軍が魏への侵攻作戦を実行する前に劉禅は魏に降伏してしまった。
    • (注)留平と施績を行軍を検討させた・・と孫休伝にあるが、これは荊州北部とは限らない。蜀書・羅憲伝に「攻撃を受けること六か月になっても援軍もなく・・」とある。タイムテーブルで見ると、264年2月に陸抗らが公安を包囲して、4月には撤退しているのだから、264年2月以前から攻撃を受けていたことになる。だとしたら263年11月の段階で巴東に侵攻した可能性は高い。で264年2月の段階で陸抗らを増援している。という訳なので、下記のテキストは間違いw。263年11月の段階で蜀は滅亡しており、すでに「魏領」である。表向きもなにもない。実際、鍾会・姜維の反乱騒ぎで、蜀は混乱しており、巴東を抜ければ、蜀制圧の可能性はあった。だが、西陵が落ちると蜀を制圧しても意味がない(連絡通路が絶たれる)。だから西陵の守りを任されている陸抗は本当は動きたくなかったのではないかと思われる。その前の歩協らの行軍で仕留めなければならなかった。それを羅憲に死守された段階でジ・エンドである。
  • そうなると魏への侵攻作戦は意味を成さない。魏への侵攻作戦は中止となる。しかし,孫休は今度は陸抗・歩協(ほきょう)・留平(りゅうへい)・盛曼(せいまん)らに軍を率いさせて,蜀方面に進めさせた。これは表向きは蜀の援護,実際には,いざという時は蜀の領土を切り取るという目的である。その頃,蜀を平定した鍾会が姜維と共に蜀で自立しようという動きも見せており,この機に蜀の領土を絡め取るチャンスではあった。