【 孫休、学問にのめりこむ 】
  • 262年,十月。この辺から孫休さんの引き籠もり^^;?が始まってしまう。孫休さんは時勢の流れから皇帝になってしまったものの,本当は学問の研究がしたかった。そこで衛将軍の濮陽興を丞相に,廷尉の丁密(ていみつ)と,光禄勲の孟宗(もうそう)を左右の御史大夫(官僚の不正取り締まり係。後漢の官位で言うと司空にあたる。)に任命,実際の政治は濮陽興と左将軍の張布に任せてしまったのである。
  • なーんで濮陽興と張布なのか??実は単に二人が孫休と親しかったからである^^;。濮陽興は孫休が琅邪王だった頃から面識があったし,張布は側近として孫綝抹殺の時にも信任されていた。孫休さんが二人が適任だと思ってしまったのだから仕方がない^^;。孫休さん,どう見ても人を見る目はない。まあ,孫休さんの弁護をすれば,自分と親しくない人物に権限を与えて,孫峻や孫綝のような勝手な専横を始められたのではたまらん,と言うことなのかも知れない。
  • とにかく,孫休さんはもっぱら古典文献の研究に勤しんだ。その意欲たるや,諸子百家の学説全てを読み尽くそうというほどで,唯一の趣味であるキジ狩りをやる時以外は書物を読まない日はなかったというから恐れ入る^^;。まあ,キジ狩りが趣味というあたり確実に孫権の血は引いているようであるが^^;。さらに孫休さんの学問への欲求は留まる所がなく,韋曜(いよう)や盛沖(せいちゅう)と言った,当時一流の学者たちとの議論を好んで行っていた。
  • その韋曜・盛沖と言った面々と孫休が親しく話しをするのを,まずい事になったなぁと見ていた人物がいる。張布である。なーにがまずいかと言うと,張布は叩けばほこりの出る過去を持っていたのである。んでもって韋曜や盛沖といった面々は,正しい事は正しい,ダメな事はダメとはっきり言ってしまう人種だったので,張布は自分の過失を韋曜らがあばいてしまって,自分が失脚させられるのではないか?と心配だったのだ。そう言うわけで張布はなんとか韋曜らを失脚させようとした。それに対しての孫休と張布の問答があるので載せたい。
  • 孫休さん曰く。
    『私が学問をして身につけた物は多い。なぜ私が韋曜らと学問について議論する事に非があるのか?あなたは韋曜たちが臣下の讒言をするのではないかという事ばかりを恐れ,だから彼らを側近として仕えさせたくないと思っているのだろう?しかしそういう事は韋曜らから聞くまでもなく,私自身がすでに良く知っている事である。ようするにあなたは心理的に韋曜たちを嫌っているというだけの事だ。』

    それを聞いて張布は自分の上奏を陳謝する。しかしそれに続けて,あまり学問に熱中すると政治が疎かになるのではないかと心配していると上奏する。孫休さんはそれに答えて,
    『書物を読まないのが非である事はあっても,書物を読む事を好んだのが非であるなんて事はありえない。政務と学問はお互いに相関関係にあり,互いに損ない合う物ではないのだ。そなたは孫綝と同じように,君主と臣下を隔てようと言うのか?(意味不明??)』

    それを聞くと張布は叩頭して陳謝した。それ見て孫休は
    『ただちょっと分かってもらおうと思って言っただけだ。叩頭して謝るほどの事ではない。あなたの忠誠はよく分かっている。どうかこれからも私によく尽くしてくれ。決して終末を汚すようなことはするなよ。』
  • この一連の会話を見ていて,張布の言っている事の方が筋が通っていると思うのは私だけだろうか?学問をする事はもちろん悪いことではない。孫権だって良く書物を読んだらしいし,部下に学問を勧めた。しかし,それは最終的に政治にプラスになるからであり,孫休の場合は趣味で学問をしていると言わざるを得ない。書物の解釈議論は結構だが,それで政治が疎かになっては本末転倒なのである。まあ,張布の方も動機が動機なので誉められた物ではないが。
  • それでも,孫休は張布が邪推するといけないという訳で,書物の解釈議論の計画は中止,韋曜・盛沖らを側近にするのもやめにした。しかし,孫休さんの学問好きはどんどん高揚していく。ついには,世にも不思議な思考に行き着いてしまったのである。