【 孫休、天に召される 】
  • 264年二月,孫休は陸抗・歩協・留平・盛曼らに軍を率いらせて,巴東を攻撃させた。巴東を守っていたのは,元・蜀の巴東太守・羅憲(らけん)である。羅憲は本来なら巴東の守将をやっているような人材ではなく,魏の蜀侵攻に対して姜維と共に防衛戦を張るべき人材だっただろう。しかし,羅憲は宦官の黄皓に嫌われており,地方に出され巴東の太守になっていた。その後,巴東都督として閻宇(えんう)が赴任して来て,羅憲はさらにその下に付けられた。魏の蜀侵攻作戦では閻宇の方が戦線に呼び出されて,羅憲は永安城に残留していたのである。巴東の包囲戦は六ヶ月にも及ぶ。その間羅憲は寡兵でもって必死の防衛戦を行い,結局陸抗らは巴東を落とすことはできず,退却する事になった。
  • その頃,呉内部でも反乱が相次いでいた。原因は蜀の滅亡により三国鼎立のバランスが崩れた事にあった。主だったのもだけで
    • 魏の新附督(しんふとく,呉から魏に寝返った者で作った部隊)の王稚(おうち)が海上から句章(くしょう)に侵入,これを孫越(そんえつ)が迎撃した。
    • 海賊が海塩(かいえん)を襲撃,司塩校尉の駱秀(らくしゅう)を殺した。中書郎の劉川(りゅうせん)が廬陵の兵を率いてこれを迎撃した。
    • 豫章(よしょう)の平民・張節(ちょうせつ)が反乱を起こして一万人のも反乱になった。魏書には豫章・廬陵の山越が反乱を起こして助北将軍を僭称したとある。張節の反乱がそれに当たるのかどうかは不明。
    • 武陵の異民族が離反。(魏書には武陵邑候の相厳が武陵の五県を糾合して魏に帰順したとある。また鍾離牧伝には,魏は漢カ県令の郭純(かくじゅん)を武陵太守に任命,異民族の長たちに魏につくように誘いをかけたとある。また蜀書には羅憲が武陵太守になったとあり,武陵の異民族の去就を巡って魏・呉両国間でしのぎが削られた事がわかる。この武陵の反乱は鍾離牧の活躍で平定された。)
    これだけ挙がってくる。さらに呂興の交州での反乱は鎮圧されていない。それほど蜀が平定された事は,呉にとって痛手だったのである。蜀が平定されたということは,長江の上流を魏に押さえられたということであり,それはこれまでの防衛ラインの破綻を意味していた。
  • その混乱の中,さらに追い打ちをかける出来事が起きる。264年7月25日,孫休が死んだのである。