【 孫休の死因 】
  • 孫休が死んだのは,264年7月25日の事である。実は孫休は重い病気にかかっていたらしい。しかし,263年の段階では元気に張布と学問についての議論をしていたのだから,結構急な発病という感じがする。しかもその病状というのが,言葉がしゃべれなくなるというものだった。これらの病状から分析すると,孫休は脳卒中,しかも脳血栓症にかかっていたのではないかと考える。脳血栓は脳の血管に血の固まりが詰まってしまい,ひどい場合には神経を圧迫して半身不随になったり,言語障害を起こしたりする。しかも症状が出てから死に至るまでの期間は短い。この病気の原因は主に食生活にあると考えられ,カロリーの高い食事を取っている人には結構多い。孫休も一国の皇帝であり,食は結構優雅な物だったのだろう。可能性としては十二分にありうると思う。
  • 孫休はいよいよ死期を悟ると,字を書いて丞相の濮陽興を呼び寄せ,孫ワンを指さして後事を託した。しかしこの願いは,はかなくも叶えられる事はなかったのである。享年30歳。孫休は景皇帝と贈り名され,定陵に葬られた。
  • さて,全体的な孫休の評価だが,『決して無能ではなかったが,覇気のなさが全てを台無しにした。』という感が否めない。孫休は皇帝になってから,どうするかというビジョンも持っていたと思われるし,行政に関しては一流と言って良かろう。しかし軍政に関しては素人,人材の見極めには?マークがつく。しかもある程度やることはやってしまったら,自分の趣味に走ってしまった。孫綝を抹殺するあたり,決して無能とは言い難い人物なだけに,もう少しなんとかならなかったか?という気はどうしてもしてしまうのである。それでも治世ならばそれなりに優秀な皇帝として名が残ったかもしれないが,時代は乱世,しかも末期であった。孫休死後,呉の人々が孫策の再来を期待したのも道理なのである。
    • (注)孫休さんは、優秀な皇帝と言ってよい。治世ならば徳のある名皇帝になっただろう。しかし、引きこもりのタイミングが悪すぎた。丁度、蜀が滅び、交州が離反するタイミングで、政権運営を張布と濮陽興にまかせっきりにしてしまった。しかも、その間に起きた出来事・孫休死後のあっけない殺され方を見ても、張布・濮陽興は無能である。人は良さそうだが。魏の蜀侵攻に警戒感を持ち、先手先手で行動すれば、戦局はどう変わったか分からない。孫休が孫綝抹殺の頃の警戒感を持って国政に当たれば、状況は変わったと思われる。実に惜しい。最後の最後でそれまでの徳政を台無しにしてしまったと言って過言ではない。
  • 孫休の弁護をするなら,例え孫休が全力で国政に携わっても,状況は変わらなかったのかもしれない,という事だろうか?蜀の滅亡とそれに付随する呉内部の混乱は,もはや時代の流れとしか言いようがなく,呉は蜀滅亡後は奇跡でも起こらない限り,魏を攻め落とす事など不可能だったのである。