【 交州離反 】
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『呉の人員不足,蜀の人材不足。』
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- 263年五月,魏は鄧艾(とうがい)・諸葛緒(しょかつしょ)・鍾会(しょうかい)の三将軍に蜀の攻撃を命じる。蜀の頼みの綱は姜維であったが,後続との連携がうまく行かず,姜維は敗れ,蜀の命運はもはや風前の灯火となった。263年夏頃の事である。
- その頃,呉でも重大な事件が起きた。事の発端は『呉の人員不足』である。元々呉の領土は人口密度が薄い蛮地であり,人員の不足は山越などの異民族を兵士として召集する事で補ってきた。それでも呉の兵員の不足は孫権の代から常につきまとっており,孫権の時代でさえ,呉は最大級の行軍で10万(しかもこれは宣伝であるから実数はさらに少なかっただろう。)程度だったと思われるのである。それでも呉が安泰だったのは,長江の守りと優秀な人材がいたからであった。しかし,人員を異民族から召集すると言うことは,取りも直さず異民族を圧迫する事になる。そのため山越などの反乱は日常的に起きており,それが呉の内部の問題として滅亡の時までつきまとった。呂興(りょこう)の反乱もそんな所が原因となっている。
- 呂興は交州・交趾郡の役人であった。交趾郡太守の孫諝は交趾の人員を建業に送っていたのだが,そこに建業からの使者である鄧旬はさらに追加の人員の派遣を求めてきた。その頃すでに蜀方面に魏の大軍が押し寄せている事もあり,呂興は人員の派遣に反対する異民族を巻き込んで,魏を頼りに反乱を起こしたのである。呂興は鄧旬・孫諝を殺害して,九真郡・日南郡にも進出,魏に使者を送り救援を請うた。魏はそれに応じて呂興を使持節都督交州諸軍師・南中大将軍・定安県侯とし,ここに交州が呉の支配下を離れる事になったのである。
- 魏の蜀侵攻,そして交州の離反。呉は一大危機を迎える。そしてこの事は魏・呉・蜀の三国鼎立の時代が過ぎ去ろうとしている足音でもあった。 ▲▼
- (注)交州の離反はずいぶんとあっさりと書いている。もう少し考察。まずは時系列から。
262年 察戦の役人を交州に送り、孔雀・大猪を調達させた。 263年5月 魏、蜀攻略の詔を下す。
交趾郡の役人の呂興、太守の孫諝・使者の鄧旬を殺害。10月 蜀が攻撃を受けていると連絡が入る。 11月 丁奉が寿春へ侵攻。留平と施績が行軍を検討。丁封と孫異は沔中へ侵攻。
蜀が降伏したため行軍を中止。
濮陽興、屯田の農民一万を兵士にすること、武陵郡を分割して天門郡を作ることを建議。264年1月 鍾会・姜維が反乱を起こす。 2月 陸抗・歩協・留平・盛曼、巴東の羅憲を包囲。 4月 魏の新附督の王稚が海から句章に侵入。孫越が撃破。 7月 海賊が海塩を襲い、司塩校尉の駱秀を殺す。中書郎の劉川に命じ盧陵の兵を動かし救援。
豫章の張節が一万人規模の反乱を起こす。
魏の胡烈が二万で西陵に侵入。陸抗らは軍を引く。
孫休、交州を分割。広州を置く。
大赦・孫休死去。
当然、交州どころではなく、蜀が滅びたので巴東の切り取りを図る。これがよく「呉が蜀を裏切った」ということになっているのだが、すでに蜀は降伏した後。つまり防衛拠点として巴東を確保しに行ったというのが正解。羅憲が「呉の裏切り者め」と叫んだのは、兵士の士気を高めるためであって、冷静に考えれば裏切ってない。羅憲はすでに魏の羅憲ですからw。しかし、寡兵の羅憲が呉の大軍を寄せ付けず、よもやの敗退となる。後に西陵の戦いで呉の救世主となる陸抗だが、この時は精彩を欠いている。おそらく、魏が西陵に侵攻してくる可能性を考え、無理な進軍をしなかったのではないかと思われる。西陵が落ちたら、巴東を取ったところでなんの意味ない。
蜀の滅亡と交州の離反の影響は様々な所に出ていて、国内が混乱状態にあることが分かる。あっちゃこっちゃで反乱・敵侵入騒ぎとなる。その状態で孫休が急死。心労も影響していると思われる。
- (注)交州の離反はずいぶんとあっさりと書いている。もう少し考察。まずは時系列から。