【 孫休、がんばる 】
  • 孫綝を取り除いた孫休さん。やっと孫休さんのやりたかった政治が出来るようになった訳だ。孫綝抹殺後,孫休さん数々の施政に取り組むようになる。
  • 1.五教博士の設置
    孫休は五教博士(学問の教育係)の位を設置して,官史の子弟の中から優秀な者に授業を受けさせた。またその中から成績の良い者を官位に付けるようにした。
  • 2.孫休の農政
    孫休は国家を支えるのは農耕と養蚕であるとし,それらを盛んにするべきだと考えた。所が,近頃では耕地開発を投げ出して,長江での交易商売を行う民衆が増えていたのである。これは国にとってはあまり良いことではない。交易商人から取れる租税というのは基本的には関税くらいしかないからである。しかも耕地開発を行う農民が減るということは,呉の発展を支えた未開地の開発,つまりフロンティア政策の破綻につながる。これは良くない事だと考えた孫休さん。農民への租税の負担を軽減するために,耕地の質に応じた課税を行うように,各地方自治体におふれを出した。
  • 3.孫休の社会事業
    孫休さんは,丹楊郡の宛陵に浦里塘(灌漑用のダム)を築く事にした。耕地開発のためである。しかしこれはかなりの難地だったらしく,ほとんどの者が成功しないと考えていたが,濮陽興だけが『絶対成功できる。』と言い張った。そこで孫休さんは濮陽興に事業を任せる事にしたのだが,濮陽興は口だけ男で,金と人を使うばっかりで肝心のダムは出来ずじまいだったのである。
  • 4.孫休の保身政策
    皇帝として地固めが出来つつあった孫休だが,一つだけ不安要素があった。孫綝に廃位された孫亮である。孫休は孫亮に反意ありという告発から,孫亮を候官(会稽の南の果て)候に落とした。孫亮はその任地に向かう途中で自殺をした。一説には孫休が毒殺したという噂もある。いや,こっちの方が信憑性あるだろう。この一連の事件そのものに陰謀の影がちらつくからだ。しかし,皇帝として反乱分子を早めに始末しておく事は,非難に値する話ではない。
  • 5.孫休,政治改革を行う。
    まあ政治に不正が付き物なのは,今も昔も変わらないらしい。特に地方自治体の不正はかなりだったらしく,中央政府でもその実体は掴みきれていなかった。孫休さんは,その実体を掴みたいと考え,光禄大夫の周奕(しゅうえき)と石偉(せきい)を地方に遣わせて各地の巡回をやらせた。その周奕と石偉の報告を元にして,地方官僚の昇進と左遷を行った。
  • 以上の政策を見るに,孫休の施政は合格点があげられるだろう。濮陽興を信用してしまうなどの失策もあるが,農政を重視して国庫の充実を計り,官僚の登用に学問による試験制度を強化,地方官僚の不正の粛清などなど,名君として申し分ない。その裏できちんと皇帝としての地固めも行っているし,なかなか隙のない政治である。魏の方でも,孫休が健在のうちは呉には隙がないと考えたのか,それとも内部の問題でそれどころではなかったのか,とにかく呉への侵攻はなかった。地盤を固めた孫休は,妻の朱夫人を皇后に,息子の孫ワンを太子に立てて,後継者問題にも早めに決着をつけた。
    • (注)孫休が皇帝となってまもなく、孫晧を鳥程侯に封じている。これは孫和の息子である孫晧に爵位を与え、孫和の名誉を回復するという政治的意図がある。これは二宮の変において、孫和派に組した豪族の名誉回復とつながる。
      また、孫休が皇帝に即位すると、滕牧(滕胤の親戚)を強制移住先から呼び戻し五官中郎将とした。これも孫綝により一族皆殺しとなった滕家の名誉回復の措置である。さらに、孫晧は鳥程侯に封じられた後、滕牧の娘を妻とした。つまり、孫晧は自身も強制移住されられているが、その妻も強制移住の被害者なのである。
  • と・こ・ろ・がである^^;。孫休さんってば,『よーし,やらにゃならん事はやっちゃったし,もうこれでいいや。後は学問勉強しよーっと(⌒▽⌒)ノ 。』ってなっちゃったのである^^;。