【 なぜ孫権は魏に臣従したのか? -孫権と魯粛の夢- 】
  • 孫権伝の注を書いているうちに、長くなったので、こちらにアップします。題して「なぜ孫権は魏に臣従したのか? -孫権と魯粛の夢-」。
  • 217年に孫権は曹操に「降伏」します。あっさりと。ちょっと戦線が思わしくなかっただけで。赤壁の大論争はなんだったんでしょう?だったら、赤壁の時もあっさりと降伏して、後に離反すれば良かったではないか?と思えなくもない。一体、どんな理由で何が目的で「降伏」したのか?ネット上でも、事件性の割に大々的な議論の的になることもそう多いとは言えません。なぜかというと、「そもそも三国志(正史)の中で、これについての話題が少ない。」ことが挙げられます。217年の魏への臣従は、孫権本記でサラッと触れる程度なのは理解できます。不名誉な事ですからね。しかし曹操本記でも出てこないのはどういう訳でしょう?むしろ曹操本記の方が軽く「孫権は退却した」としかありません。もしかしたら、あまりにも唐突だったので孫権の真意を測りかねていたのかもしれません。
  • で、孫権が魏に臣従した理由・目的について、よく言われるのが「孫権の柔軟な外交戦略」というものです。「孫権は自分の立場を柔軟にとらえ、外交戦略により常に2対1の状況の多数派とになった」ということがよく言われます。しかし常に「2対1」の状況をつくり、多数派についたのかというとそうでもなく、特に221年には、魏に臣従した状態で蜀と長期対立し、その状態で息子の孫登を人質に寄こせ、と曹丕に迫られ、6月まで蜀と争い、9月には魏に侵攻されるという事態も引き起こしています。一歩間違えれば大参事という状況も引き起こしたともいえ、「魏への臣従」が上手な外交か?と言われると私は微妙だと感じます。結果オーライなだけです。そもそも国力比から三国時代は「魏vs呉・蜀」という構図が基本であり、王道です。「第一勢力と組んで第三勢力と争う」という、戦略的には「間違った」手法であり、下手をすれば魏を利するだけでした。
  • 次に指摘されるのが「荊州完全併呑のための戦略」というものです。確かに217年段階で荊州は東西で二分されており、完全併呑には至っていません。防衛拠点的にも江陵は確保したい所です。219年には荊州併呑作戦を開始するのだから、魏への臣従もその計画の一端と考えることもできます。しかし、関羽を油断させるためだけなら、むしろ魏に臣従してない方がやりやすい(騙しやすい)とも思えます。大体、2年も前から219年の状況を予見できるとも思えません。もし、関羽が「魏に臣従した呉」に攻めてきたらどうなったのでしょう?つまり、これも結果オーライなだけだと私は思います。
  • つまり、「外交戦略」「領土戦略」というのは理由の一つではあるかもしれないが、中心目的ではないのではない、ということです。では何のためだったのか?まず217年前後の情勢を整理します。
    • 前年の216年、曹操は魏王となった。
    • 217年2月、曹操は孫権討伐のため濡須に軍を進めた。
    • 同年3月、夏侯惇・曹仁・張遼らを居巣に留めて軍を引いた。(孫権から降伏の申し入れがあった。)
    • 同年、劉備は漢中に軍を進めた。
    前後の動きとして大きいのはこれくらいです。まず217年の呉への侵攻はかなり大規模なもので、戦線は芳しくありませんでした。といっても、敗退したというほどでもありません。だから、孫権から降伏の申し入れがあった後も、夏侯惇・曹仁・張遼ら歴戦の強者を残し、孫権の策謀に備えていることが分かります。不気味だったのでしょう。そして漢中方面には劉備が侵攻します。実は、劉備の漢中への侵攻、孫権の魏への臣従、このいずれもが、前年の曹操の魏王就任を受けた「独立政権としての今後」を見据えた行動ではないかと考えることができるのです。
  • どういうことか?まず、事のきっかけは216年の曹操の魏王就任です。後漢王朝において「王」は全て「劉姓(皇帝の親族)」でした。曹操は「異姓(親族以外)」で、初めて王になった人物であり、これが漢から魏への禅譲のカウントダウンの始まりなのは明白でした。つまり、「漢王朝が滅びる」という事態が見えてきたわけです。「漢王朝が滅びる」という事態を目前にして、呉と蜀は何を考えたのか?
  • まず劉備から。劉備が漢中にこだわったのは、一つは「地勢の問題」です。曹操にとっては「鶏肋」であっても、劉備にとっては「蜀の喉仏」であり、漢中は是が非でも確保しなければならない土地でした。しかし漢中を確保する目的はそれだけではなく「政治的意味」もありました。劉備の場合のアドバンテージは劉姓であることです。「劉姓」の者が「漢中」を支配し「王」を称するということは、高祖「劉邦」の再現にあたります。少なくとも「蜀内」においては「漢中王」の下、漢王朝の後を引き継ぐという基本方針は広く支持される基本姿勢になりえます。ただ「専断・自称」であることには変わりなく、劉備伝における漢中王就任のための上奏文においても、「専断であるが正義である」ことを強調する内容となっています。劉備ですら、皇帝を自称する際には、「献帝がおられるのに、なぜ皇帝を自称するのか」と孫権でも批判でき(お前が言うか・・と突っ込みたくなるがw)、国内的にも微妙な情勢もありました。
  • で、孫権です。孫権は献帝を擁していませんから、曹操のように実力で正式に異姓として王になることはできません。自称するしかないわけですが、そうなった場合、数々の問題が発生します。
    • 自称すると漢王朝への反乱勢力と見なされる。(劉備は一概にはそうとは限らない)
    • 劉姓でないので、そもそも王になる資格がない。(曹操は別格)
    • 家柄が悪く官位も低い。(劉備の上奏で車騎将軍代行・徐州牧。正式な物まで遡ると討虜将軍・会稽太守。)
    曹操の場合は、「異姓」ですが「正式」かつ「官位は最高位(丞相)」。劉備の場合は「反乱勢力」ですが「劉姓」かつ「官位も申し分ない(左将軍・豫荊益三郡の牧)」です。それぞれにクリアすべき課題は一つだけです。孫権がこの状態で王を自称するのが国内的にも国外的にもいかに苦しいかは明白です。
  • ではどうするのか?その答えが「魏への臣従」です。つまり、孫権は「王になるための障害を克服する」ために臣従した。それが魏への臣従の主目的と思われます。
  • まず、漢王朝(曹操)から孫権を「王」に正式に任命してもらうことは無理です。曹操が「王」の状態で、それに並ぶ官位を孫権に与えるとは考えられません。では自称するか?というと、前述のとおり。それは非常に苦しい。いずれにしても「漢王朝が存在している間は孫権が王になる道筋は存在していない」のです。では「漢王朝滅亡後」はどうでしょうか?「異姓」であることは変えられないにしても、「正式な任命」かつ「十分な官位」を得る術はないだろうか?
  • あります。それは漢から禅譲された「魏」から王に任命してもらうか、「魏」に対抗し劉備が立ち上げるであろう「蜀」から王に任命してもらうか?です。どちらも屈辱的と言えば屈辱的です。しかし、劉備からとなると二重の意味で屈辱です。それにどちらを選べと言われれば、「正式」な方からもらった方が良い。そのための「最善の方策」が魏への臣従な訳です。
  • これを裏付ける物として、孫権が曹操にあてた手紙があります。曹操本記注「魏略」によると、孫権は、自ら臣と称し「天命が漢から魏に移っている(つまり、皇帝になるべきだ)」ということを説いた、とあります。曹操に早く皇帝になってほしい理由はなんでしょうか?それは「早く皇帝になって、私を王にしてちょうだい」・・ということです。曹丕が皇帝になってからは、さらに遜りの度合いが増し、孫権は自ら「藩国」を名乗ります。ここまでする理由は、ただただ、良い官位がほしかった、できれば王にしてほしかった・・という一点に尽きるように思えます。
  • で。なーんで、このテキストの副題が「孫権と魯粛の夢」なのか?ここから先はただの妄想です。根拠は求めないでくださいw
  • 孫権が魏に臣従した217年。この年、魯粛が逝去します。死因は書かれていません。ただ、魯粛伝は215年の荊州争奪戦の後、一気に魯粛逝去の話になります。その間がないので、病身だったのかもしれません。孫権伝本記には「孫権が降伏したのは217年春」と書かれています。魯粛が217年のどの段階で逝去したかは分かりませんが、春なら存命中である可能性は高いと思われます。となると、この魏への臣従のシナリオは、魯粛が描いたものではないでしょうか?
  • 魯粛は、その生涯を「孫権を皇帝にする。その最短の道を追求する。」ことに、その生涯を捧げました。(少なくとも私の魯粛像は。)魯粛の構想を簡単に説明すると、目的は「孫権を皇帝にすること」。その方法は「長江流域を悉く制圧し、地勢の利を作り鼎立する」ことです。そのための「駒」が劉備であり、是が非でも獲得すべき地が「江陵」です。そして217年段階で、まだ「孫権を皇帝にする」ことも「江陵を制圧する」こともできていません。劉備と同盟している限り、江陵を制圧することは不可能。かつ「孫権を皇帝にする」ためには、その前段階として、まず孫権を「王」にしなくてはならない。しかし、孫権が王を自称することは数々の問題点が存在する。
  • ならどうするか?魯粛がそこに考えが至らない・・とは、私には思えず、もし死期が近づいていることを本人が悟ったなら、孫権に今後の方策について説かなかった・・なんてことがあり得るだろうか?と。(あくまで妄想ですよw)。
  • (魯粛の病床にて。)
    • 魯粛「孫権様、曹操に降伏なさいませ。」
    • 孫権「は?」
    • 魯粛「それが孫権様が帝王になられるための、最善の道筋なのです。」
    • 孫権(うー、何言ってんのか、さっぱり分からん・・・。)
    「しゃべる起爆剤」うちの魯粛さんなら、平気で言いそうですw。少なくとも、孫権が一人で魏に臣従することを考えた訳ではないでしょうし、当時の呉で最大のブレーンは魯粛です。今後について、ある程度の道筋は持っていたと考えることは十分できます。まっ、こんな妄想とは現実は違うでしょうが・・・。