【 孫策の女性関係 】
  • 今回の三国雑談は、おまちかね??の孫策の女性関係についてです^^;。たぶんにネタですので、真面目な考察だと思わないように(笑)。
  • 呉書第五の皇妃伝では、孫家のお嫁さんたちの伝が載っています。
     1.孫堅夫人・呉夫人伝
     2.孫権夫人・謝夫人伝
     3.孫権夫人・徐夫人伝
     4.孫権夫人・歩夫人伝
     5.孫権夫人・王夫人伝
     6.孫権夫人・王夫人伝
     7.孫権夫人・潘夫人伝
     8.孫亮夫人・全夫人伝
     9.孫休夫人・朱夫人伝
     10.孫和何姫伝
     11.孫晧夫人・滕夫人伝
  • 以上の11伝が孫家のお嫁さんとして、正史に伝が載っている人です。ぱーっと見て、孫権のお嫁さんの伝が多いのが分ります。孫権のお嫁さんだけで6人。うらやましい(笑)。それと特徴としてすべての伝が【○○夫人伝】という形になっています。その理由についての考察は、【 呉夫人伝1-孫呉政権は母性社会?- 】でやっているので、ここでは省略します。後は・・・取りあえず孫堅も孫亮も孫休も孫晧も1人づつ正室に値する人の伝が一本づつ掲載されている訳です。あれ?なんで孫策だけないの??
  • これに対する単純かつ論理的であろう答えは、【孫策は皇帝じゃないから】です。孫権は皇帝になると、創業の父・孫堅には武烈皇帝の名を、そして兄の孫策には長沙桓王の贈り名を授けました。つまり、孫策は皇帝ではなく一つ下の王なのです。これについては、陳寿も孫策に対する不当評価であると評していますが、これには孫権の権威に対する微妙な政治的配慮もあるようです。取りあえず、どういう理由があるにせよ、孫策は皇帝じゃない。皇帝じゃないんだから、当然、皇妃伝に孫策のお嫁さんの伝はない・・・ということになります。
  • こう考えると、話は終わってしまうのですが、松竹梅さんに、呉書の夫人伝の形式については韋昭の【呉書】の影響もあるのでは?と指摘されたので、その方向で考察をしてみたいと思います。(注意・・・ここから先の考察はかなり電波入っています(爆)。深く考えるとおかしい部分が一杯あるので鋭いつっこみはなしでお願いします^^;。)
  • 実は、皇妃伝には1人だけ皇后じゃない人の伝が入っています。それは【孫和何姫伝】。つまり孫晧のお母さんの伝です。孫和は皇太子でしたが、二宮の変でその座を追われました。つまり皇帝ではない。なのに、その孫和のお嫁さんの伝が立っているのです。これは不公平です。なら、孫策のお嫁さんの伝も載せろよなー。
  • なぜ、孫和のお嫁さんの伝が皇妃伝として載っているのか?その答えはかなり分かり易く答えが出ます。孫晧との関係上載せざるを得なかったのではないか?ということです。実は孫晧は韋昭の呉書編算の際に、【父の孫和の伝を本紀(孫権や孫休と同列の皇帝の伝)として載せろ】と主張、しかし韋昭は【それは歴史を曲げる事になる。】として突っぱね、それが原因の一つとなって、後に韋昭が国政から隠居するという事件が起きています。この事件でも分るように、史書というのは、その史書が編算された時期の政治的背景に大きく影響を受けているのです。そして、正史・呉書を作るに当たって、陳寿は韋昭の呉書を大いに参考にした、と言われており、この皇妃伝でも韋昭の呉書の影響が大きく残っている可能性が非常に高いのです。というか、まず間違えなくそうでしょう。もし陳寿が新しく孫呉の皇妃伝を編算し直したとしたら、孫和何夫人の伝が載るはずが有りません。
  • 同様に、なぜ孫策のお嫁さんの伝が立っていないのか?を考えます。孫晧と孫策がらみで思い当たる事が一つありますね。【孫晧の時代に、孫策の孫にあたる孫奉が皇帝になるのではないか?という噂が広がり、それが元で孫奉は誅殺されている。】という事です。孫権の治世の時もそうでしたが、孫策の直系の子孫というのは、中央にとってかなりやっかいな存在だったようです。孫策の子孫というだけで期待が大きかったんでしょうねぇ。ある意味、孫策も罪作りです。いずれにしても、孫権同様、孫晧にとっても孫策を持ち上げすぎるのは危険でした。ならば、そのような危険分子のお嫁さんの伝は立てる意味がない。下手に立てれば、孫晧に睨まれないとも限らない。
  • こういう方向性で考えれば、後宮に何千人という女官を入れていたと言われている、孫晧のお嫁さんの伝が正室である滕夫人の伝しかないのも理解可能です。孫晧は間違えなく多くの夫人を抱えていますが、その夫人の伝を立てれば、孫晧は淫蕩であるというイメージは避けられません。元々、正室の伝さえあれば良いのが皇妃伝なのですから。そして、これを元にもう少し、思考を巡らせれば、【なぜ孫権の夫人伝だけ6人もあるのか?】という部分にメスを入れる事も可能です。本来的に考えれば、孫権の夫人の伝で必要なのは、死後に皇后の位を贈られた歩夫人伝、孫亮の母である潘夫人伝、そして孫休の母である王夫人伝の三本だけで良いはずです。しかし、孫権の夫人の伝を多く書き上げる事で、二宮の変の問題点が浮き彫りになる形になっているのではないか?という気がします。実際、普通に正史を読めば、【孫権って女ったらしだよなぁ^^;?】という印象を受けますから。そして、この孫権の女性問題の被害を受けた張本人。それこそが廃嫡された孫和の子、孫晧な訳です。
  • さて、ネタの軽い考察のつもりが、えりゃー重くなってしまいました^^;。本題の孫策の女性関係に戻ります。さすがに、孫策の女性関係を一切描かないのはまずいと思ったのか?1人だけ、孫策の妻となった人物の名が書かれています。はい、超有名人の大喬さんです。孫策が廬江の劉勲を討伐した時に、捕虜になった美人の誉れ高い喬姉妹を孫策と周瑜が妻にしたのですが、この逸話は実は孫策伝の中には有りません。周瑜伝の方の記述なんです。つまり、感じとしては、周瑜の奥さんの事を周瑜伝で触れた関係上、姉の事も列記するのが自然なので載せた・・って感じなんですよ^^;。すいません、孫策-大喬さんラブの人、ごめんなさい。はっきり言っちゃいますが、孫策の正室が大喬であるという保証はどこにもありません(汗)。それどころか、孫策は女性に関しては、かなーりオープンだった可能性すらあります。
  • まず、孫策の子ども関係から追っていきます。孫策の息子として孫紹という子がいます。男子の記録はそれだけですが、孫策には娘が多く、1人は顧雍の子・顧邵に嫁ぎ、1人は朱治の子の朱紀に嫁ぎ、もう1人はあの陸遜の妻になっているのです。合わせて一男三女です。ちなみに大喬さんが孫策のお嫁さんになったのは、劉勲攻撃をした199年以降。そして翌年の200年には孫策は死亡しています。いくら大喬さんの出産能力が優れていたとしても、4人の子を一年以内に宿すのはまず無理でしょう。四ツ子の可能性がないとも限りませんが^^;。ちなみに、孫策は26才で死んでいる訳ですから、まあ最初の妻を17~18で迎えたとして7年か8年の間に4人の子を孕ませてます。孫策のイメージを崩すようで気が引けますが、個人的には、孫策はそっち方面でもかなりの強者だったのではないか?という気がしますです。はい^^;。