【 呉の四姓 】
  • 今回は「呉の四姓」についてのレジメです。呉系考察サイトとしてはやっとかにゃという事でw。まずは基礎知識。「呉の四姓とはなんぞや?」
  • まあ簡単に言うと、呉において強い影響力を持った豪族四家を指す言葉です。呉が豪族との連合体国家であった事を説明する際によく用いられます。それくらい強い力を持った呉の豪族の代表が「呉の四姓」な訳です。四氏とは「顧家」「陸家」「朱家」「張家」の四氏を指します。顧と陸は分かりやすい。呉で顧姓と言えば顧雍の一族以外に大きな豪族はいないし、陸姓と言えば陸遜の一族があまりにも有名です。ところが朱と張がどうにも分かりにくい。朱姓で呉書に伝が立てられているのは、朱治・朱然・朱桓・朱拠などがいます。そのうち朱治・朱然は丹楊出身の朱治の一族。朱桓・朱拠らは呉郡出身の豪族です。つまり呉で朱家と言った場合、朱治・朱然(丹楊)の一族と朱桓・朱拠(呉)の一族の二つがある。次に張姓で伝があるのは、張昭(彭城)・張紘(広陵)・張温(呉)らがいる。三人とも別系列の名士です。果たして「呉の四姓」の朱家はどっちか?張家はどれか?
  • もし「呉の四姓」が「呉国の四姓」という意味であるならば、朱家は朱治の一族、張家は張昭の一族が妥当でしょう。朱治や張昭は孫呉政権初期において重要な役割を果たした人物ですから。しかし、「呉の四姓」が「呉郡の四姓」であるならば、朱家は朱桓・朱拠の一族、張家は張温の一族という事になります。さてどちらか?
  • この問題に答えを出すには、「呉の四姓」という言葉の原典を探っていくしかない。例によって集解斜め読み(解析率50%以下)でなんとなく分かったのは、「世説新語」(宋代の書)に呉の四姓についての記述がある事、「文選」(梁代に作られた詩・散文集)に陸機の五行詩があり、その中に呉の四姓についての記述がある事、さらに世説新語の呉の四姓についての記述の原典は「呉録」(西晋代の書)であるらしいという事などが分かった。とりあえずここまでで丸一日かかっている。文盲はつらいのう。
  • こうなったら順番に解析していくしかない。とりあえず「世説新語」から。
    • 呉四姓舊目云「張文、朱武、陸忠、顧厚。」
    とある。舊目という言葉が解析できないのだけど(何となく書名っぽいが。)要するに「呉の四姓」を褒め称える言葉な訳である。つまり
    • 張氏=文(学問に通じている。)
    • 朱氏=武(武勇に優れている)
    • 陸氏=忠(忠節心が強い)
    • 顧氏=厚(いたわりの心が強い)
    な訳だ。確かに陸氏・顧氏については忠・厚というイメージがある。ただ張氏については張昭も張紘も張温も「文」だ。朱氏についても朱治・朱然・朱桓・朱拠いずれも武功がある。まだこの段階では結論は出せない。
  • 先に進もう。次に陸機の五行詩。
    • 屬城咸有士 呉邑最為多 八族未足侈 四姓實名家
    「属城(それぞれの都市)に咸く(ことごとく)士(立派な人物)有るは、呉邑 最も多たり。八族 未だ侈(大・驕る)とするに足らず、四姓 実(まこと)に名家なり。」(それぞれの都市に立派な人物はいるが呉には最も多い。八族と言えど驕るに足らない。呉の四姓こそ真の名家である。)
  • そんでもってそれに呉録の注釈がついている。
    • 八族陳桓呂竇公孫司馬徐傅也 四姓朱張顧陸也
    「八族とは陳氏、桓氏、呂氏、竇氏、公孫氏、司馬氏、徐氏、傅氏である。四姓とは朱氏、張氏、顧氏、陸氏である。」 
  • 八族ってのは当時の中国において有力な一族の事らしい。つまり陸機は故郷のお国自慢をしている訳だ。問題はこの場合の四姓が呉国の四姓なのか、呉郡の四姓なのかだが、属城(それぞれの都市)という言葉から考えると呉郡を指している可能性が高い。が、まだ私の解析力では断言はできない。呉邑という言い方が気になるが取りあえず先に行こう。
  • 次に「世説新語」の注に引く「呉録」から。
    • 呉郡有顧陸朱張為四姓。三国之間四姓盛焉。
    答えが出ましたねwとりあえず意訳すると・・・
    「呉郡には顧氏、陸氏、朱氏、張氏が有り四姓と言う。三国時代の間、四姓は盛んだった。」
    こんな感じでしょうか?つまり「呉の四姓」とは「呉郡の四姓」です。という事は張氏は張温の一族、朱氏は朱桓・朱拠の一族です。よし、解決。めでたし。めでたし。
  • ・・って待て。張温の一族ってそんなに重要な一族か?確かに張温は呉郡の有力豪族であったようだが、張温の失脚に伴い、その子孫も官位を剥奪されているはずだ。顧氏・陸氏と比べてずいぶん印象が弱い。
    朱氏についても言いたい事がある。朱桓と朱拠では朱桓の方が活躍期間が先なので、朱家の祖は朱桓だろうが、彼は最初は孫権の側仕えからのスタートであり、それを経て県長となった。このパターンは有力豪族の出世パターンではない。むしろ周泰・蒋欽・呂蒙のような叩き上げ軍人のパターンだ。孫堅期からすでに有力豪族だった陸氏や顧氏とは訳が違う。
  • もっと言いたい事はある。呉郡の有力豪族なら、忘れてはならない一族がもっといるはずだ。まずは、全家は外せないだろう。全琮を始め、孫亮期には外戚として権力を得た一族である。全家を四姓から外して朱家・張家を入れると言うのはどうも腑に落ちない。まだまだ呉郡出身者は多い。凌統もそうだし、周魴だって伝が立てられている人物だ。なぜ四姓に入らないのか?
  • こういう時は地道な作業に限る。呉郡出身者で伝が立てられている人物全てを調べ直せばよい・・・という事で片っ端から見直していくと面白い事が分かってきた。
    • 孫家・・・呉郡富春出身
    • 呉景・呉夫人・・・元は呉郡呉出身。呉夫人の頃は銭唐にいた。
    • 徐琨・・・呉郡富春出身
    • 顧雍・・・呉郡呉出身
    • 凌統・・呉郡余杭出身
    • 朱桓・朱拠・・・呉郡呉出身
    • 陸績・陸瑁・陸遜・陸抗・陸凱・・・呉郡呉出身
    • 張温・・・呉郡呉出身
    • 吾粲・・・呉郡烏程出身
    • 全琮・・・呉郡銭唐出身
    • 周魴・・・呉郡陽羨出身
    • 韋曜・・・呉郡雲陽(曲阿)出身
    • 華覈・・・呉郡武進出身
  • なんと顧・朱・陸・張いずれの家も呉郡呉県出身なのだ。呉郡の四姓どころの話ではない。これは呉郡呉県の四姓という可能性が高くないか?もし呉郡の四姓ならばそれこそ全家が入ってないのはおかしい。しかし、呉郡呉県の四姓という事なら話は違ってくる。呉郡呉県出身で伝が立てられているのは顧・朱・陸・張の四姓のみであり、呉郡銭唐出身の全家が呉郡呉県の四姓に入ってくる道理がない。
  • そうなってくると陸機の五行詩で呉邑という言葉が使われている理由も説明がつく。邑という言葉は日本語で言うと「村」「里」であり、非常に規模の小さい範囲を指す言葉だ。当時の規模で言うと県に相当している。だから陸機は呉県の自慢をしていた可能性がある。つまり、呉の豪族の代表格として扱われていた呉の四姓という言葉は元は、呉郡の呉県の四姓という非常に小さい範囲の名士を指す言葉であったという事ではないだろうか?それがいつの間にか呉郡の・・という意味に使われるようになったのではないか?
  • もう一つだけ気になる事がある。呉家は元は呉郡呉県の出身だったという事だ。しかし孫堅・呉夫人の頃は銭唐に移住しており、呉郡呉県の四姓との結びつきより、むしろ孫家・徐家といった富春の豪族との結びつきが強くなっている。銭唐出身の全家や余杭の凌家も孫策期の参入で、比較的初期の参入であるのに対し、呉郡呉県の四姓の呉政権参入は孫権期に入ってから。つまり呉の四姓は比較的政権参入が遅いのが特徴だ。つまり孫堅期・孫策期において呉郡呉県の豪族たちは孫政権に参入しなかった。
  • またもう一つ非常に特徴的な共通点もある。呉郡呉県の四姓はいずれも孫権によって掣肘を受けているのである。
    • 顧家・・・顧譚・顧承が二宮の変において罪を得て、交州に流された。
    • 朱家・・・朱拠が二宮の変において罪を得て、自殺を命じられた。
    • 陸家・・・いわずと知れた陸遜。二宮の変において孫権の詰問を受け、憤死した。
    • 張家・・・張温が曁艶失脚事件に連座して失脚している。
  • 四家のうち三家が二宮の変において太子派の中心人物と見なされ、いずれも掣肘を受けている点は偶然だろうか?断定的な事は言えないが、呉郡呉県の四姓が徒出して政権の重要な位置を占めてしまうのは、明らかにバランスが取れてないという事は言えそうである。
  • いずれにしても、呉郡呉県の豪族があまりに優秀すぎたという事は言えそうだ。張文、朱武、陸忠、顧厚。確かにその通りだが、そんなに優秀な人材が呉郡の呉県という狭い範囲に集中していたのは、違う角度から見れば不幸だったという事は言えないだろうか?