【 孫策は江東豪族を弾圧したのか? 】
  • 孫権伝の注を書いているうちに、どえりゃー長くなったので、三国雑談としてアップします。内容的に「呉の四姓」のテキストの続編のような感じです。
  • よく孫策は江東豪族を弾圧した・・と、書かれています。私も以前はそう思っていました。いや、いろんな所で目にするので、そうなんかいな?とw。具体的には、田余慶氏の「孫呉建国的道路」(ネット上では見つからず)という論文において、「孫策が江東豪族を弾圧した」時期があると書かれているようです。その他にもネット上では、「弾圧した」という前提で、話が進んでいるケースが多いようです。つーか、自分もそう書いてるんですけどw
  • では、具体的に「孫策がどの江東豪族を弾圧したの?」ってことです。孫策が弾圧したとしたら、以下の人物たちが思い当ります。
    • 自称?呉郡太守・許貢。呉郡から追い出された。
    • 会稽の賊・厳白虎。出生がよく分からないが、豪族かもしれない。
    • 自称盧陵太守・僮芝。怪しいが豪族かもしれない。
    • 鳥程の賊、鄒他・銭銅・嘉興の賊、王晟。豪族かもしれない。
    • 高岱。孫策伝注「呉録」に、孫策とトラブルがあり、殺されたとある。
    他、忘れている人物がいたら教えてください。今、思いつくのはこれくらいです。えー、どうでしょう?豪族を弾圧してますかね?許貢はそもそも、当時の自称?呉郡太守でしたから追い出さざるを得ません。厳白虎・僮芝・鄒他・銭銅・王晟は反乱勢力であり弾圧?と呼べるのかどうか?豪族であったとしても、マイナーすぎます。つまり、私が把握する限りでは、孫策が弾圧した可能性がある江東豪族というと、高岱しか思い当りません。もう一人、殺されかけた人はいますけど。でもそいつ(魏滕。呉書外伝参照。)は、孫権にも殺されかかってますので、どっちかというと本人の性格に問題ありかとw
  • 逆に孫策が江東豪族を起用したケースはいくつかあります。賀家や全家は、孫策期に参入してますし、朱治や周瑜も江東豪族です。親戚筋ですが呉家・徐家も江東豪族。また陸績も孫策期から軍議の末席にいたと書かれています。そもそも、孫策はほとんど外征してない年がなく、豪族を弾圧して君主権を強めようとか、そういう類の話は見かけません。8割戦争ですw。つまり、「孫策が江東豪族を弾圧した」というのは、イメージだけが先行している感があるのです。
  • ここで少し話を変えて、孫権が登用した江東豪族について確認していきます。孫権が登用した江東豪族の主要人物は「陸遜・顧雍・朱然・張允(張温の父)」です。はい。「呉の四姓」です。かれらは孫策期には参入せず、孫権期になって参入します。「呉の四姓」のテキストを書いたときは、その理由までは触れませんでした。もしかしたら、孫策が弾圧したからでしょうか?いや、もし孫策が彼らを弾圧したなら、彼らも黙ってないでしょう。呉郡で反乱騒ぎがあっても不思議ではないですし、それなら孫権に代が代わったからといって、そう簡単に参入できるような話ではなくなってきます。そもそも陸績は孫策期から孫呉勢力に加わっていたことが書かれており、もし孫策が彼らを弾圧したなら、そんなことはあり得ません。
  • さて、私の結論です。それは【孫策は江東豪族を弾圧はしていない。逆で「ある郡」の豪族、特に「その中のある県の豪族」に嫌われていた。嫌われちゃってたのでトラブルも発生した。】というものです。これは「揚州の豪族」とか「江東の豪族」とか書くから話がぼやけて訳が分からなくなるのです。孫権が登用した揚州豪族と高岱・鄒他・銭銅・王晟の出身を見れば、意味が分かってきます。実は、高岱は「呉郡出身の名族」。鄒他・銭銅も鳥程の人ですから呉人。王晟も呉の豪族です。
  • 呉郡呉県の豪族、所謂「呉の四姓」たちは、孫策期には孫呉勢力には加担せず、孫権期になってから初めて参入します。その理由は「孫策を嫌っていたから」だと思われます。彼らにとっては、孫呉勢力の当主が孫策から孫権に代わったことは「渡りに船」でした。なぜ、孫策を嫌っていたのか?その最大の理由は「袁術(孫策)による廬江太守・陸康殺害」です。「陸・顧・張・朱」四家は非常に結びつきが強く、その代表格である陸家の当主が殺害されたことは、大きな事件でした。彼らが「廬江攻略で多いに活躍した袁術の部下」である孫策を快く思うはずがありません。それどころか、孫策の江東攻略に際し、敵対する可能性は大いにありました。
  • それが、なぜか孫策の江東攻略に際し「陸・顧・張・朱」の四家は、孫策と敵対はしませんでした。積極的に迎え入れたわけではないでしょうが、特に拒否した風でもない。その理由は「陸績」の存在だと思われます。陸績は陸康の長子ですが、孫策期にすでに、張昭・張紘・秦松らと共に、議論に加わっている様子が描かれています。普通に考えれば不思議な事ですが、孫策は呉郡の豪族との対立をさけるため、陸績を迎え入れていた可能性もあります。(あるいは、囚われていた?)正統な長子が孫策の元にいるのですから、敵対するわけにはいかなくなります。
  • ところが、197年に孫策が袁術から離反したことにより、少し事情が変わってきます。袁術の部下ではなく、漢王朝から正式に任命された会稽太守なら話は変わってきます。「陸・顧・張・朱」家にとっても、江東に割拠する孫呉勢力と手を結び、力を発揮した方が家のためにも良いのです。しかし、色々な事(陸康の件・高岱の件等)があり、孫策が当主である以上、自分たちから頭を下げて参入することはできなかったと思われます。それが、孫策が死去し当主が孫権になったことにより、孫呉勢力に接近するチャンスが生まれます。孫権にとっても「呉の四姓」にとっても、互い手を取り合うのがベストな選択でした。少なくともこの時点ではそうでした。
  • 高岱・鄒他・銭銅・王晟らについては、それぞれに意味合いが異なると思われます。まず鄒他・銭銅・王晟は豪族だとしても下級だと思われ、どちらかというと孫家・呉家の同類です。それが証拠に孫堅の頃から付き合いがあった王晟の助命嘆願を呉夫人が呼びかけています。高岱は呉郡の名士と言ってよく、孫策が殺害したとすれば、結構大きな事件です。このように呉県以外でも呉郡豪族とのトラブルは、他の郡の豪族と比べ、比較的多いように思われます。
  • 原因として考えられるのは、「孫家が呉郡の成り上がり豪族である」ということでしょう。そもそもは孫家呉家は格下の豪族です。それが武勇を頼りに江東に割拠し、自分たちの上にいるのですから、いい気分はしません。逆に孫家も呉郡豪族が自分たちのことを、軽んじているというコンプレックスのようなものもあったかもしれません。当時は土地の結びつきが非常に強い社会でした。結びつきの強さは、一方でトラブルの原因にもなります。なので、当時はその土地の出身豪族をそのまま、その土地の太守にすることはしませんでした。だから孫策は会稽太守であり、呉郡の太守は朱治な訳です。