【 許劭(許子将)について 】
  • 許邵(許子将)については、呉書外伝でアップする予定でしたが、あまりに長くなったので、こちらでアップする事にしました。ということで今回の三国雑談は許邵についてです。
  • 許邵、字は子将。汝南郡平与の人です。月旦評(毎月一日に人物評価会を従兄弟の許靖とともに開いていた。)で有名なあの人です。もっと分かり易く言うと、曹操の事を【治世の能臣、乱世の姦雄】と評したアノ人です。三国志をかじった人なら誰でも知っている有名人ですが、ヤフーで検索をかけてみると、たったの31件しか引っかかりません。これは意外^^;。ちなみに太史慈だと4180件、許貢ですら410件、呉書見聞でさえ160件です(爆)。これはさすがにおかしいので、今度は許邵の別名の許子将で検索をかけるとこっちは161件。ああ、なるほどー♪そういう事か(笑)。しかし、これほど有名人でありながら、少なすぎる感は否めない。検索結果にざっと目を通しても、例の曹操を評して言った【治世のノーシン、乱世のバファリン】のエピソードの紹介が約9割を占め、許邵自身の考察やまとまった紹介は数えるほどしかない。これは取り上げない手はない(邪笑)。
  • まず、許邵がどういう人物なのかをざっと言っておくと、人物批評の大家です。でも少し詳しい人なら、彼に人物を見る目があったかどうか疑問に思いますよね?なんと言っても彼は劉繇の元にいながら、結局、孫策の進軍を止める事はできなかった。しかも太史慈を評価しなかったというエピソードで傷がつく。曹操を乱世の姦雄と評したのはいいが、それも渋々だ。あんまり見る目がねーんじゃねーの??と思う人、たぶん一杯いるでしょう。いやいや、許邵が曹操を批評するのを嫌がったり、太史慈を評価しなかったのは、ごく当たり前の事なのです。どういう事か?まず、当時の社会での許邵ら人物鑑定家たちが果たした役割を考えてみましょう。
  • 当時の社会ではテレビや新聞がある訳でもなし、一つ郡を離れると、ドコのダレガシがとても才能があるとか、ダレダレは清廉な行動をしたとか、そういう噂すらなかなか耳に入らない。つまり、優秀な人材を捜そうにも情報が不足していた。コレは人材を捜す側にとっても、出世して名声を得たい人にとっても、大変困った事です。そこでそういう人材の情報ネットワークみたいなのが必要になってきます。そこでそういう情報を集めて批評をしていたのが人物批評家、その代表格が許邵な訳です。だから彼らが果たした役割は大変大きかった。曹操がなんとか許邵に評価してもらおうと必死になったのも、その辺が原因です。許邵の評価が当たっているかどうかが問題なんじゃなくて、彼に評価されるのが大切だったのです。橋玄が曹操に対して『君にはまだ名声がないから、許子将とつき合うと良い。』と言うエピソードが曹操伝に乗っています。つまり、許邵に評価してもらう事=名声を得ることだったわけです。
  • また、許邵がその人物を評価する際のポイントは、才能ももちろんですが、孝行・清廉・・・と言うような儒教的観点からという感覚が大きなウェイトを占めているはずです。ですから、儒の精神的には正しい人物でも中には当然実務能力が備わっていないような人もいます。ということは、許邵が良い批評をしたからと言って、その人物に優れた才能があるとは限らない訳です。逆に言えば、その人にどんなに才能があろうと、儒の精神的に良くない行動がある場合には、まず評価のまな板に登る事すらない・・・と言えます。太史慈が許邵に評価されなかったのなんて、ごく当たり前です。曹操はおそらく、宦官の子であるという点がネックになっていたと思われます。曹操にして見れば、乱世の姦雄・・・という一見ありがたくない評価でも、許邵に評価してもらえた・・・という事実が大変重要だったのではないでしょうか?
  • 正史の中に彼がどんな人物を批評したのかが書かれている記述を抜き取ってみます。
    • 【魏書・荀彧伝】ある人が荀靖と荀爽(いずれも荀彧の叔父)とどちらが優れているか?と許邵に聞くと、許邵は【慈明(荀爽)は外がくもりなく輝き、叔慈(荀靖)は内に光沢を含んでいる】と答えた。
    • 【魏書・劉曄伝】許邵は劉曄を【時の君主を補佐する才能がある】と言った。
    • 【魏書・和洽伝】ここにある程度まとまった許邵の伝がある。許邵は樊子昭を頭巾を売る店から見出したのをはじめとして、虞永賢を牧童から見出し、李淑才を村里の中から召し出し、郭子瑜を鞍を置いた馬を世話する役人から抜擢し、楊孝祖を引きあげ、和陽士(和洽)を推挙した・・とある。また、あの袁紹が故郷に帰るときに、【ワシの車や衣服を許子将に見せるわけにはいかない。】と言って、一台の車だけで帰った・・・とある。あの四世三公の袁紹でさえ、許邵の批評は怖かったのだ。
    • 【呉書・太史慈伝】劉繇は、【太史慈を使ったりすると、許邵殿がワシの事を笑わないだろうか?】と言い、太史慈には敵の偵察の任しか与えなかった。
    と、こんな所です。彼が評価した人物はいずれも清流派の名家だったり、母の遺言を正確に実行した劉曄だったりと、儒の観点から問題なく批評できる人ばかりです。それよりも、曹操が許子将に批評してほしがったり、袁紹が許子将に酷評されるのを恐れたり、劉繇も許邵の言動にビクビクしている感じがしますし、彼の一言で自分の評価が決まってしまう・・・って感じの方が強く感じます。それだけの大物だった・・・と言う事です。
  • ですが・・・・許邵在命中はともかく、三国時代の中盤以降になってくると、どうも許邵に対する悪評というのもチラホラと出てきます。どういう所に出てくるかと言うと・・・
    • 【魏書・鍾繇伝】孫権が曹丕に臣下の礼を取ってきたとき、曹丕は【孫権は二国(魏・蜀)の間を泳ぎ回り、荀(荀爽)・許(許邵)に誉められたり、けなされたりしていれば十分だ。】と言っている。
    • 【蜀書・龐統伝】許子将の人物批評は不公平で、樊子昭を高く持ち上げ、許文休(靖)を不当に低くおさえている・・・と、蒋済という人が、【万機論】という著書の中で言っている。
    • 【蜀書・許靖伝】同じく【万機論】から。許文休(靖)は全体として国政を荷う人材であるが、許子将は彼を低く評価した。もしほんとうに彼を尊ばなかったのなら、人を見る目がなかったことになる。もしほんとうに彼の価値を知っていたとするならば、すぐれた人物を無視したことになる。
    • 【呉書・諸葛恪伝】諸葛恪が陸遜に送った手紙の中に【中原の士大夫たち、例えば許邵のような人は、互いの欠点をあげつらい合った事が原因で災いを受けた人が出たのであるが・・・】とある。
    1の曹丕の言葉で問題なのは、【誉められたりけなされたりしておれば良い・・・】の部分です。もちろん、これは孫権に対する皮肉ですが、この言葉からは許邵ら人物鑑定家に対する敬意というのがあまり感じられません。まあ、これは皮肉屋の曹丕らしいという感じはします。ですが、蜀書の方の二つの批判は大変重要です。実は許邵と許靖の従兄弟は、二人で月旦評をやっていたにも関わらず、仲が悪かったのです。これはただ仲が悪かったでは済みません。二人とも当代きっての人物批評家です。その二人が兄弟ゲンカなんかしちゃいけないのです。儒の精神に反する行為です。【後漢書・許邵伝】では、当時の人は、許邵と許靖の仲互いから、許邵の事をよく言わなかった・・・と書かれています。許邵と許靖の仲違いは、後世まで許邵の名を貶める結果となったと言えます。
  • 4の諸葛恪の手紙では、完全に許邵の事は名士ではなく愚かな人物として書かれています。もちろん、諸葛恪の時代には前述した許靖との仲違いの件も知られていたでしょうから、そういう意味での悪評・・・とも言えますが、どうもそれだけとは言い切れません。呉の場合はちょっと事情が異なるように思われます。はっきり言うと、孫権や陸遜らは、こうした儒の精神論のみで人物批評を行なう風潮を、嫌っていた・・・という感があります。しかし、これを考えると孫呉政権と儒教という非常にデリケートで専門的な話題になってしまうので、ここでは深く追求しません^^;。後ほどと言うことで・・・・。
  • さて許邵ですが、彼は名声は高かったのですが、ずっと誰にも士官しませんでした。名士中の名士として選ぶ君主を間違える訳には行かなかったのでしょう。江東に乱を逃れた許邵は、どうやら自分を信任してくれた劉繇に尽くす事を決めたらしく、劉繇が豫章に逃れた後も同行して、その豫章で劉繇共々天寿を全うしています。人物批評の大家として、主が落日の運命にあっても、君主を裏切ったという悪評が加わるのは許邵には耐え難い事だったのでしょう。そういう意味で、許邵はその名声に違わぬ立派な人物だったと言えるのではないでしょうか?